雄琴ソープが出来上がった経緯とは

関西地方で有名なソープ街といえば、兵庫県の福原か滋賀の雄琴の2つ。
同じソープ街であっても特徴が違うこの2つのソープ街は、地元だけではなかう周辺地域からも客を集める人気スポットとなっています。
全国的に有名なこの2つの地域ですが、雄琴ソープ街は近年温泉街との関係で話題になったことで、注目されたソープ街です。

昭和41年3月、東京永田町の首相官邸の裏にトルコ風呂を建設しようとした1人の男がいて、法律上何の問題も無かったため建設許可が下りてしまったために当時の首相が激怒し、法案提出から2週間で超スピード成立、成立4日後から施行されるということがありました。
現在でも風俗店は「官庁や病院、学校などの敷地から200m以内での営業禁止」という条例によって出店が難しい状況にありますが、この時に制定されたものです。
また、同時に各都道府県の条例でも営業禁止区域が制定されました。

この営業禁止区域が制定されたことによって、性風俗店の出店が難しくなり今まで営業出来ていた地域であっても新規出店が出来なくなりました。
しかし、そこは裏を返せば「その条例に引っ掛かっていなければ、何処でも営業可能」と考えられるというもので、同様に考えたある風俗店経営者は、全国を巡って出店可能地域の調査を始め、地の利が良く条例で出店が妨げられない雄琴に目を付けました。
そして、昭和46年に初めてのトルコ風呂が雄琴に誕生したというわけです。

その雄琴トルコ風呂の1号店は、京都や大阪からの車で駐車場が埋め尽くされ、連日夜遅くまで客が途切れることはなく、さらにその利益もとんでもないものだったと言われています。
当時ではトルコ風呂の新規出店に1億5000万円は掛かると言われていて、それが1年も経たずにペイ出来たというのですから、その繁盛振りがとんでもないことがわかることでしょう。
それを聞いた京都などのトルコ風呂業者も雄琴に乗り込んできて、ほんの数年で50店舗ほどの規模となって、現在のような雄琴ソープ街が形成されたのです。

当初は温泉街とソープ街で客の行き来があり共存関係にあったのですが、温泉地ではなくソープ街として有名となった雄琴は、家族連れや女性客、修学旅行客などから敬遠され、徐々に温泉旅館は減っていき最終的に残ったのはおよそ10軒ほどとなってしまいました。
2008年、雄琴温泉街はソープ街との共存関係を捨て、おごと温泉へと改名して再び独立して歩き出しました。
雄琴とおごと、2つに分かれたものの、どちらも潰し合うような関係ではないということで、今後も温泉とソープが楽しめる場所として人気は続くことでしょう。