すーっと現実を見通す貴方。考えや思考に私と同じで、悩み を感じました。 まっすぐに向き合いたいと思いました? 初めてお会いしたのにどこか親近感があり、延長した時間を含めるのに、やり残したことが多いと感じる時間でした。 今度はもっとゆっくりと、また予定が合えばとても嬉しいと感じます?? 中身はキウイだったかな?急にお腹が空いて、咄嗟に写真を残して、次の瞬間にはお口の中でした?罪深ーい??滅! ----- そう。話す生き物は人間だけだと思っていたところに鳥が割って入ってきた感じがする。 しかもただ鳴いているのではなく意味を伝え、組み合わせ、相手の行動を変えているらしい。 東京大学の鈴木俊貴さんの研究室では動物行動学・言語学・認知科学を合わせた動物言語学 が進められていて、動物の鳴き声やジェスチャーがどんな意味を持つのか、どう生存に役立つのか、どんな認知能力から進化したのかを研究しているそうです。特にシジュウカラは、鳴き声を使い分けたり、組み合わせたりして複雑なメッセージを作れることが示されている。 例、京都大学の発表ではシジュウカラが鳴き声の組み合わせに文法ルールのようなものを当てはめ、初めて聞く組み合わせでも意味を理解できると報告されている。これは動物は決まった刺激に反応しているだけ という見方を揺さぶる発見。 ここで面白いのは言葉とは何か?という問いが急に人間だけのものではなくなること。 人間はずっと言葉を持つことを自分たちの特権のように考えてきた。言葉があるから考えられる。言葉があるから世界を分けられる。言葉があるから他者と通じ合える。 だから人間は特別なのだ、と。 でも、鳥が危険だ。集まれ。こっちに来い。のような意味を伝えているのだとしたら人間の特別さは少しだけ崩れる。 いや、崩れるというより人間だけが頂点に立っている世界観が少しやわらぐ。 鳥は人間のように話さない。けれど鳥には鳥の文法がある。鳥には鳥の切実さ、社会がある。 私たちが言葉 と呼んできたものはもしかすると声そのものではなく世界を誰かと分け合おうとする働きなのかもしれない。 生きるための言葉だ。人間の言葉は意味を飾る。鳥の言葉は、命を守る。 どちらが上というより言葉の根っこにはきっと、ひとりでは生きられないものたちの合図 がある。 そう考えると、言語の始まりは美しい文章を書きたいではなく、あなたに気づいてほしい だったのかもしれない。 言葉の根源には、孤独ではなく関係がある。 そして思想的に見ると、動物言語学はかなり大きな転換を含んでいると思う。 それは、人間中心主義からの離脱に近い。私たちは長い間、動物を言葉を持たないものとして見てきた。言葉を持たないから思考も浅い。思考が浅いから世界も単純に見えている。そうやって人間は自分たちの知性を測る物差しで他の生き物を測ってきた。 でも本当は鳥が黙っていたのではない。私たちが聞けていなかっただけかもしれない。 動物に言葉がないのではなく、人間が動物の言葉を言葉として認めてこなかったのかもしれない。 これは人間同士にもつながる。 声が小さい人。うまく説明できない人。沈黙する人。感情でしか話せない人。遠回しにしか言えない人。 そういう人を私たちはすぐ何を考えているか分からないと言ってしまう。でも本当はその人にもその人の文法がある。ただこちらが読み取る耳を持っていないだけかもしれない。 人見知りは救われる。 鳥の言葉を研究することは鳥を理解することだけではなく、他者を理解するとはどういうことかを問い直すことでもある。 鳥が話す。その事実は少しだけ世界を優しくする。森は無音ではなかった。 人間が自然と呼んでいたものは、もしかすると人間に聞き取れない会話で満ちていたのかもしれない。 少し怖くて、でも美しいことだと思う。 鳥も、イルカも、ボノボも、犬も、猫も、木々の間を飛び交う小さな命たちも、それぞれの仕方で世界を読んでいる。近年はボノボの鳴き声の組み合わせにも、人間の言語に似た意味の組み立てがある可能性が報告されるなど、動物コミュニケーションの複雑さはさらに注目されている。 人間は言葉を持つ唯一の存在ではなく言葉を言葉として研究し直せる存在 なのかもしれない。そこに人間の尊さがある。 聞こえなかったものを、聞こうとすること。動物言語学が教えてくれるのは、鳥も人間みたいに話すという単純な話ではなくて、 人間が思っているより世界はずっと会話していたということなのかもしれない。 そういえば昔こちらのお店で私に白鳥とサギの違いを教えてくださった方、貴方になら何かわかりますか? 唐突に思い出しました? 鳳条 暦
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