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鳳条 暦

鳳条 暦

(23)

T164 B83(E) W55 H82

 

11:00 ~ 17:30

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営業時間 11:00-24:00

  • 09/19 09:30

    夜2

      今日を終えるだけでいい夜 生きることは大変だ。 ? 昨日まで平気だったことが今日は苦しくて、理由もなく寂しくなって、何も解決しないままそれでも明日はやってくる。 ? いつかは上手に生きられるようになると思っていた。迷わなくなって、傷つかなくなって、自分を励ます言葉も、すぐに見つかるようになるのだと。 ? でもそうならない日もある。前に進む気力がなくても、お腹は空くし、夜は更ける。 眠る前になっても明日を楽しみに思えないことだってある。 ? だからきっと生きることに慣れなくてもいい。 上手に生きられない日を抱えながら、答えが出ないまま、今日を終えていく。 ? 何かを乗り越えたと言えなくてもいい。 それだけで十分な夜もある。 ? 鳳条 暦

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  • 09/18 17:15

    夜1

      生き方に迷うこともあれば、世界中から自分だけが嫌われているような気がする日もある。 ? 誰かにそう言われたわけではない。 それでも何気ない返事やすれ違った視線にまで、自分がここにいてはいけない理由を探してしまう。 ? ただ疲れているだけだと言い聞かせても、心に空いた穴は正しさだけでは埋まってくれない。 ? 忘れたつもりの悲しみは弱った心を見つけるのが上手で、そんな日に限って昔の傷まで連れてくる。 ? もう終わったことなのに、どうして今も苦しいのだろう。そう思うたび、傷ついた自分を責めてしまう。 ? けれど思い出して痛むのは、あのとき確かに悲しかったからだ。今夜くらいはその悲しみをなかったことにしなくていい。 ? 鳳条 暦

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  • 09/18 09:15

    幸福2 楽しみにできない夜にも

     ただ、明日を楽しみにできない夜もある。未来を思い描く力すら残っていないとき、無理に希望を探さなくてもいい。 ? そんな日は、「明日が楽しみ」ではなくても、 明日になれば、今日とは少し違うかもしれない くらいでいい。 ? 幸福とは立派な未来を信じることではなく、まだ知らない明日のために、今日ですべてを決めてしまわないことなのかも。 ? そしていつかまた、眠ることが今日から逃げるためではなく、楽しみな明日へ近づくためのものになったなら。 そのとき人はきっと、幸せになったのではなく、幸せを感じられる自分のところへ静かに戻ってきたの。 ? 鳳条 暦

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  • 09/16 20:01

    幸福1 明日が楽しみな状態

      幸福とは、明日が楽しみな状態のこと ? 幸せとは、今日が満たされていることだと思っていた。好きな人がそばにいること。 欲しかったものを手に入れること。 悲しいことが何も起きないこと。 ? けれど本当は今日がどんな一日だったかよりも、眠りにつく前に明日をどう思えるかのほうが、その人の幸福をよく表しているのかもしれない。 ? 明日、読みたい本がある。食べたいものがある。会いたい人がいる。続きを見たい物語がある。 そんな小さな「明日」がひとつあるだけで、人は今日の終わりを絶望ではなく区切りとして受け入れられる。 ? 幸福とはずっと笑っていられることではない。 今日が雨でも、明日は少し晴れるかもしれないと、心のどこかに余白を残しておけることなのだと思う。 鳳条 暦 ? 鳳条 暦

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  • 09/16 09:45

    短話

     人魚の肉を食べて不老長寿を得たとされる「八百比丘尼」生誕の地。 ? 映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』の原作「島編」に登場する人魚 の元ネタと噂されています。 ? 八百比丘尼は人魚の肉を食べて不老不死になり、最後は洞窟に身を隠したみたいです? ? …………………………………………… ? 春日井市『円福寺』 ? ああ。もう一回映画観たい?? ? 鳳条 暦

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  • 09/15 18:45

    踊り場にて3

     物語の最後、舞子は学校の踊り場で小さくバレエを踊る。 それは捨てたはずの夢へ戻ろうとする姿ではない。 バレエを叶わなかった夢から、確かに自分をつくってくれた大切なもの へと置き直すための踊りだったように感じる。 ? 夢を手放すことと夢を嫌いになることは違う。 続けられなくなったとしても、好きだった気持ちまで否定する必要はないのです。 ? そしてこの作品の題名にある「踊り場」という言葉も とても象徴的。 踊り場は、階段の途中にある場所。 上っているわけでも、下りているわけでもありません。一見すると前へ進んでいないように見えるけれど、そこで息を整え、来た道を振り返り、これから進む方向を考えることができる。 ? 人生にも、そんな時間があるのだと思います。 何者にもなれていない気がするとき。 昨日までの目標を見失い、次に向かう場所も分からないとき。 周りだけが前へ進み、自分だけが取り残されたように感じるとき。 ? けれどそれは人生から脱落した時間ではない。 次の道へ進むために必要な、人生の踊り場です。 諦めるとは夢をなかったことにすることではない。 叶わなかった現実と、それでも確かに好きだった自分の両方を受け入れて、その夢を自分の人生の中に置き直すこと。 叶わなかった夢は消さなくていい。 抱えたままでも人は別の階段を上っていける。 人生の踊り場は、ただ立ち止まるためだけの場所ではない。そこで息を整えてもいい。泣いてもいい。来た道を振り返ってもいい。 ? そしてそこでもう一度だけ、好きだった踊りを踊ってもいいのです。 ? 鳳条 暦

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  • 09/15 09:45

    短話

    愛情は、 もっと温かくて、 柔らかいものであっていい ? 鳳条 暦

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  • 09/14 17:30

    踊り場にて2

     この作品が優しいのは、夢は最後まで追い続けるべきだ とも、無理なら早く諦めたほうがいい とも言わないところ。 ? 諦められないうちは無理に諦めなくてもいい。まだ好きなのに。まだ悔しいのに。 本当はもう少し続けたいのに。 周囲の正しさや現実的な判断だけで手放そうとすると、置き去りにされた気持ちはいつまでも自分の中をさまよい続ける。 ? 諦めとは誰かに説得されてするものではなく、自分の気持ちが、自分の中に静かに着地するまで待つことなのかもしれない。 ? あきらめる という言葉には、もともと明らかに見る という意味があるといわれている。 だとすれば、本当の意味で諦めることは可能性を雑に捨てることではない。 自分は何を望んでいたのか。何を失うのが、こんなにも悲しいのか。 どこまでなら続けられるのか。 そして今、本当に進みたいのはどこなのか。 ? それらを曖昧なままにせず、最後まで見つめたうえで、自分の答えを引き受けることなのだと思う。 投げ出すは、見ないまま離れること。 諦めるは、最後まで見つめた末に手放すこと。 ? だから諦めることには痛みがあっても、必ずしも後悔が残るとは限らない。 叶わなかった夢も、そこに費やした時間も、自分の中から消えてしまうわけではない。その経験は次に何を選ぶかを決める感覚となり、その後の人生を支えるものへと姿を変えていきます。 ? 夢は、叶ったときにだけ意味を持つものではありません。 届かなかった場所を目指して歩いた時間もまた、その人を形づくっているのだろう。 ? 鳳条 暦

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  • 09/14 09:45

    踊り場にて1

     美園舞子は、プロのバレエダンサーを目指して海外で活動していた29歳。 けれどその夢を諦めて帰国し、以前勤めていた高校で国語教師として働き始める。 夢や希望について語ることを求められる学校は、夢を失ったばかりの舞子にとって、少し居心地の悪い場所。 未来の可能性に満ちている生徒たちを前にしても真っ直ぐに「夢を持ちなさい」とは言えない。夢を追うことの美しさだけではなく、その苦しさや努力しても届かないことがある現実を、舞子は知ってしまっているから。 ? けれど生徒たちもまた、それぞれの場所で「諦められないもの」を抱えていた。 ? 舞子は彼らと向き合ううちに、「諦めるとは何なのか」を考え始める。 そんな舞子に、母は小学校の卒業文集を見せます。そこに書かれていたのは、舞子自身も忘れていた「教師になりたい」という夢。 バレエダンサーにはなれなかった。 けれどひとつの夢を失った人生の中で、彼女はいつの間にかもうひとつの夢を叶えていた。 ? 人生はひとつの夢が叶わなかっただけで、すべてが失敗になるほど単純ではないのかもしれない。 ? 鳳条 暦

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  • 09/13 19:30

    愛3

     ただしここにも危うさがある。 不安定な場所から離れたいとき、人は安定を愛と見誤ることがある。 疲れているときの安堵はとても魅力的に見える。 だからどこかへ逃げたい気持ちと、どこかへ行きたい気持ちは分けて考えなければならない。 ? ある場所が苦しいからといって、別の場所が正しいわけではない。 違和感のある関係が間違いだからといって、穏やかな関係が答えになるわけでもない。 ? そこにあるのは人と人の選択というより、どのような時間の中で自分は生きたいのかという問題なのだと思う。 ? 恋のために、小さな違和感を何度も飲み込む人生。安心のために大きな感情を手放す人生。 あるいは、そのどちらでもない第三の形。 安定と成長は本来は反対語ではない。 ? 穏やかな場所でも、人は変わる。 激しい場所にいても、何ひとつ育たないことがある。 だから、成長させてくれる人を選べばいいとも思わない。 成長という言葉はときどき苦しさを正当化する。傷ついたことを、必要な経験だったと言い換える。我慢したこと成熟だったと呼び変える。けれど苦しいことすべてに意味があるわけではない。人を成長させるのは必ずしも痛みではない。安心の中で初めて伸びるものもある。 ? だから私はどちらが正しいのかではなく、どちらの場所にいるとき自分の人生が自分のものとして残るのかを考えたい。 今を選ぶか。未来を選ぶか。 その問いさえ少し違うのかもしれない。 ? 今を壊し続けなければ成立しない未来なら、それは本当に未来なのだろうか。 未来を想像できないほど違和感のある現在を、 今を大切にしていると呼べるのだろうか。 反対に、未来が安全そうだという理由だけで、 心が向いていない場所を選ぶことは生きることになるのだろうか。 ? 結局、人を選ぶのではなく、その人の隣にいる自分を選ぶのだと思う。 どちらが優れているかではない。どちらが正しいかでもない。 そこで何を我慢し、何を失い、何を育て、 どんな自分になっていくのか。 その総体がたぶん選択と呼ばれる。 ? 愛は感情だけではない。けれど理屈だけでもない。愛とは理屈を超えることなのではなく、理屈を通り抜けても、なお残ってしまうものなのかもしれない。 条件を並べても。未来を考えても。 違和感を数えても。不安を取り除いても。 それでもなお、その人であることに意味が残る。 そこまでいって初めて、私は愛という言葉を使えるのかもしれない。 ? だから、急いで答えを出すつもりはない。 迷っていること自体が、まだ見るべきものがあるということでもある。 ただ、ひとつだけ決めている。 違和感を、恋の代償として処理し続けないこと。安定を、愛の証明として利用しないこと。 そして苦しさを成長と呼んで誤魔化さないこと。 人を選ぶより先に、自分がどんな生き方を選ぼうとしているのかをもう少し見ていたい。 ? 愛とはたぶん、誰かを選ぶことより先にどのような自分でその人のそばに存在したいのかを選ぶこと。 ? 鳳条 暦

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  • 09/13 09:30

    短話

    言葉にしないことで守られる気持ちがあり、 ? 問い詰めないことで保たれる関係があり、 ? 曖昧さに救われる人も、たくさんいる。 鳳条 暦

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  • 09/12 19:30

    短話

    死亡率100%の人生で、 ? 何にためらうことがあるのだろう。 ? 鳳条 暦

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  • 09/12 09:45

    愛2

     穏やかさには、信頼から生まれるものもあれば、諦めから生まれるものもある。 期待しないことでも、心は静かになる。 何も求めなければ、傷つくことも減る。 それを平穏と呼ぶこともできる。 ? しかし、平穏と幸福は同じではない。 では、何を見ればいいのだろう。 ? たぶん私は、感情の大きさよりも自分の輪郭の変化を見るしかないのだと思う。 ? その場所にいると、私は言葉を飲み込むことが増えるのか。それとも言葉にしなくてもなお理解されるのか。 未来を想像したとき、自分が少しずつ薄くなっていくのか。まだ知らない自分に近づいていけるのか。 ? 違和感というものも案外そういうところに現れる。 大きな不幸ではない。決定的な破綻でもない。 むしろ、説明しようとすると些細に見える。 ? 一つひとつを切り取れば、我慢できる程度のことばかりだ。だから、人は違和感を過小評価する。 これくらい普通だ。誰にでもある。完璧な関係なんてない。そうやって処理する。 でも本当に怖いのは違和感そのものではなく、それが反復される未来をすでにどこかで想像できてしまうことなのだと思う。 ? 今だけなら耐えられる。けれどこの先もずっと同じ場所で、同じことに立ち止まるのだとしたら。 その想像が好きという感情より先に立ち上がってしまうとき、恋は少し違うものに見えてくる。 ? もしかすると、私は安定を求めているのではない。安心して愛せる場所を求めているのかもしれない。   鳳条 暦

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  • 09/11 17:32

    短話

    釣りに行く彼氏を心配している声が聞こえた。 ? 「死なんといてな!」 ? 冗談と本音の狭間にあるような声だった。 ? 「俺は泳げるから大丈夫。海でもバタフライするし。 まぁでも溺れたら、背泳ぎか平泳ぎやな。 息さえ吸って、肺に空気があれば浮くって」 ? 彼は彼なりに、彼女を安心させようとしているらしい。 ? けれど彼女が知りたいのは、海でどの泳法を選ぶのかではなく、無事に帰ってきてくれるかどうか。 ? 「死なんといてな」 ? たったそれだけの言葉だったけれど、その人がいる明日を当たり前に願う、小さな愛が詰まっていた。 ? 心配する彼女と、バタフライで乗り切ろうとする彼。 ? なんだか可愛くて、私はその小さな愛に、少しときめいた。 ? 鳳条 暦 ?

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  • 09/11 09:30

    愛1

     愛について考えるとき、私はいつも感情より先に構造を見ようとしてしまう。 好きかどうかではなく、なぜそこに留まっているのか。なぜ離れられないのか。 なぜ別の場所に安堵を感じるのか。 そういうことばかり考える。 たぶん、感情というものを、そのまま信じることが少し怖いのだと思う。 心は、その瞬間に最も強く動いたものを真実だと思い込む。 けれど、強度と真実は同じではない。 激しいことと深いことも、不安定であることと特別であることも必ずしも一致しない。それでも人はときどき、心を乱すものの方に意味があると思ってしまう。 波立つことを、生きている証拠のように感じてしまう。 反対に、穏やかなものには理由を求める。 なぜ安心するのか。なぜ疲れないのか。 なぜここでは自分を守ろうとしなくていいのか。 そして理由を探し始めた瞬間、愛は少しずつ理屈に似てくる。 理屈は愛を否定するのか ここで厄介なのは、理屈が愛を否定するものではないということだ。 むしろ人は誰かを本当に自分の人生の内部へ置こうとしたとき、初めて理屈を必要とするのかもしれない。 一時の感情で済むなら、未来など考えなくていい。 今日会いたい。今そばにいてほしい。 それだけで成立する。しかしその人の存在を、明日や来年やもっと遠い時間にまで連れていこうとした瞬間、感情だけでは足りなくなる。 そこに生活が生まれ、時間が生まれ、責任が生まれる。 つまり、愛には現実が混ざる。 だから私は理屈が前に出てくることを、 愛がない証拠だとは思わない。 ただときどき分からなくなる。 理屈が愛を支えているのか。それとも、 愛と呼べるものが足りないから理屈でそこを補強しようとしているのか。 この二つは、外から見るとよく似ている。 優しい。安心できる。穏やかである。未来を想像できる。 それらはすべて、ひとつの関係を選ぶ理由になりうる。けれど理由は必ずしも欲望ではない。 正しいことと望んでいることは違う。 安全な場所と帰りたい場所も違う。 だから、自分がどこかに安堵するとき、その安堵を無条件に愛と呼ぶことには慎重でいたい。   鳳条 暦

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  • 09/10 18:16

    短話

    わかってほしいんじゃなくてわかろうとしてくれることにめちゃくちゃ愛を感じるの ? わかり合えないからこそ、寄り添い合おうとしてほしいの ? 鳳条 暦

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  • 09/10 09:45

    短話

      自分のすべてを包み隠さず話すことが、素直とは限らない。何でも明かす奥には、深入りされる前に距離を埋め、安心を得たい気持ちがある。 すぐ言葉にできる思いが、いつも本心に近いわけではない。まだ言葉にならない思いを急いで形にせず、内側で確かめる時間も、相手に本心で向き合う素直さになる。 鳳条 暦

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  • 09/09 09:45

    儚い世界で優しく笑って4+お知らせ

    9/14(月)、15(火) 13:15-に空き枠があります。お時間があればお会いしたいです?  失う怖さをなくす必要はない。 ? 大切なものを失うのが怖いのは当たり前だ。 人を好きになれば別れを想像して怖くなる。 幸せであればこの幸せが終わることが怖くなる。 ? それは弱さだけではない。 まだここにいてほしい と願えるほど、何かを愛せたということでもある。 ? だから怖がっていい。寂しがっていい。 別れたなら、泣いていい。 どうしても手放せない夜があってもいい。 ただその恐怖のために、まだ失っていない今日まで失わないこと。 ? それだけは覚えておきたい。 ? いつか別れるかもしれない人と、今日笑えるなら笑っておく。 いつか動かなくなる身体で、行きたい場所へ行く。 いつか価値を失うかもしれないお金で、自分の人生に必要な経験を買う。 いつか終わる仕事なら、そこでしか学べないものを受け取る。 いつか離れる家なら、そこで過ごす夜をきちんと味わう。 ? いつか終わる人生なら今日という一日を、 なくさないための一日ではなく、生きるための一日にする。 ? 本当に手放せる人とは、何にも執着しない人ではない。 ? むしろとても深く愛せる人なのだと思う。 それでも終わったからといって、愛したことまで消えるわけではない と知っている。 ? だから永遠を約束してもらわなくても、今日を愛せる。 ずっと自分のものでなくても、大切にできる。 いつか失うと知りながら、それでも手を伸ばせる。 ? 諦めではなく、永遠でなければ愛せないという条件を、愛から外してあげることなのだと思う。 ? 私たちは何も持たずに生まれ、何も持たずに帰っていく。 その間にだけ、たくさんのものが掌に乗る。 人。物。お金。若さ。才能。仕事。場所。季節。時間。 ? どれもいつかは掌からこぼれていく。 だからといって痛いほど強く握りしめなくていい。 どうせなくなるからと、最初から触れない必要もない。掌を開いて、今そこにあるものの温度を感じればいい。 ? そして去っていくものがあれば、寂しさごと見送ればいい。 ? きっと人生とは、何も失わないように生きることではない。 ? いつか手放すものを、それでも愛することなのだ。 ? 目指すのは、失うことが怖くない人生ではなく、失うことが怖くても十分に愛せる人生。 ? 鳳条 暦

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  • 09/08 09:15

    儚い世界で優しく笑って3

     花は散るから偽物なのではない。 夏が終わるから、夏が存在しなかったことになるわけでもない。旅行から帰ってくるから、旅が無意味になるわけでもない。 ? 小説には最後のページがある。映画にはエンドロールがある。音楽は最後の音で終わる。 それでも私たちは終わるものに心を動かされる。 むしろ終わりがあるからこそ、その途中を大切にできることさえある。 ? もし何も終わらないのなら、私たちは今日をこれほど大切にできるだろうか。 またいつでも会える が永遠に保証されていたら、今日会うことにどれほどの意味を感じるだろう。 時間が無限にあるのなら、今度やろう は永遠に今度のままだろう。 ? 終わりは人生から意味を奪うものではない。 終わりがあるという事実が今この瞬間に輪郭を与えている。 ? そう考えると、失いたくない という気持ちの中には、二つの感情が混ざっているのかもしれない。 ? ひとつは、 「大切だから、もう少し一緒にいたい」 という愛。 ? もうひとつは、 「これがなくなったあとの自分を想像できない」 という恐怖。 ? この二つはとてもよく似ている。 だから私たちはときどき間違える。 恐怖から相手を引き止めているのに、愛だからだと思う。 不安から物を抱え込んでいるのに、大切だからだと思う。過去の自分を失いたくなくて続けているのに、まだ好きだからだと思う。 ? そんなときは自分に尋ねてみてもいい。 答えはきっと、綺麗にどちらかではない。 ? 愛もある。恐怖もある。執着もある。寂しさもある。 ? それでいい。 考えてみれば、私たちはこの身体さえ永久には持っていられない。 名前も、財産も、容姿も、肩書きも、人間関係も、いつかは手放していく。 「自分のもの」と呼んでいるものの多くは、返す日を知らされていない借り物のようなものなのかもしれない。 ? けれどいつか返さなければならないからといって、借りている時間まで虚しくなるわけではない。 むしろ返す日が来るからこそ、借りているあいだに何をするのかがその人の人生になる。 ? 人生は所有するための旅ではないのだと思う。 何かを集め、最後まで守り切り、最も多く持っていた人が勝つゲームではない。 ? 人生とは、自分のものを増やしていく旅ではなく、自分のところを通り過ぎていくものをきちんと味わう旅なのかもしれない。 「これは私のもの」ではなく、 「今、私のところにいてくれているもの」 そう思えたとき、大切にしなくなるのではない。 ? きっと逆だ。所有していると思えば、明日もあるような気がする。 けれど預かっていると思えば、今日触れられることが少し奇跡に思えてくる。 ? 鳳条 暦

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  • 09/07 17:45

    儚い世界で優しく笑って2

    ?  では傷つかないためには、何も愛さないほうがいいのだろうか。 ? 誰にも期待しない。何にも依存しない。 人を好きになりすぎない。失って困るほど大切なものを作らない。 そうすれば、確かに失う苦しみは少なくなるのかもしれない。 ? けれどそれは苦しみを乗り越えたというより、幸福まで一緒に遠ざけてしまっただけではないだろうか。 誰かを深く愛したから、別れが苦しい。 何かに夢中になったから、終わることが寂しい。幸せな時間だったから、過去になることが悲しい。 ? 喪失の痛みはときにそれほど大切なものが私の人生に存在した という証でもある。 悲しみを完全になくそうとすれば、愛まで薄くなってしまう。だから目指すべきなのは何も失わない人生でも、何にも執着しない人間でもない。 ? もっと難しいところに答えがある。深く愛することと、いつか手放すこと。その二つを、同じ心の中に持つことなのだと思う。 ? 手放す という言葉は、どこか冷たく聞こえる。諦める。捨てる。忘れる。もう必要としない。そんな意味のように感じてしまう。 けれど本当の意味で手放すことは、もう大切ではありません と言うことではない。 むしろ、大切だけれど、永遠に私のものである必要はない と認めることなのではないだろうか。 ? それは簡単なことではない。人生は私たちの願いとは関係なく進んでいく。 昨日まで絶対に必要だと思っていたものが、ある日それほど重要ではなくなることさえある。 私たちは人生の中で何かになり、何かを手に入れ、そしてそれを少しずつ卒業していく。 ? 考えてみれば子どもの頃からそうだった。 お気に入りのおもちゃがあった。毎日一緒にいた友達がいた。大好きだった先生がいた。 けれど今、そのすべてを毎日思い出しているわけではない。それでもなくなったわけではない。あの頃に好きだったものは、今の自分のどこかに混ざっている。 愛した人から教えてもらった言葉。 仕事を通して身についた癖。昔読んだ本からもらった考え方。誰かに優しくされた記憶。 傷ついたことで知った痛み。それらは所有物 という形では残らない。 ? けれど、自分という人間の一部に姿を変えて残っている。だから手元からなくなることと、人生から消えることは違う。残る ということを少し狭く考えすぎているのかもしれない。 ? ずっと付き合っていれば、その恋は本物だった。別れたなら失敗だった。 続けていれば、その仕事には意味があった。 辞めたなら途中で投げ出した。 持ち続けていれば、大切にしていた。 手放したならもういらなくなった。 本当にそうだろうか。 十年間一緒にいた二人が別れたとして、その十年間まで消えてしまうのだろうか。 夢中になった仕事を辞めたとして、そこで身につけたものは無意味になるのだろうか。 大切だった物を手放したら、それを愛していた時間まで失われるのだろうか。 ? そんなはずはない。 終わることと、無意味になることは違う。 鳳条 暦

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  • 09/06 19:30

    儚い世界で優しく笑って1

    大好きな『まどマギ』の新作映画が、現在公開されています。 早く観に行きたい?? 今回はアニメの具体的な内容には触れていませんが、その大まかな物語から着想を得て、この文章を書きました。  失いたくない と思えるものがある。 そういうものがあるのは一見すると、とても幸福なことだ。 けれど私たちは何かを手に入れた瞬間、幸福だけを得るわけではない。同時にそれを失う可能性まで手に入れてしまう。 ? 何も持っていなかった頃には存在しなかった恐怖が、手に入れた途端に生まれる。 若さを自分の価値だと思わなければ、老いていくことにこれほど怯えずに済むのかもしれない。 大切なものが増えるほど人生は豊かになる。 けれど同時に、失うことを恐れる場所も増えていく。 ? 人生が難しくなるのは、きっとここからなのだと思う。 人は自分のそばに長くあるものを、ただの持ち物 としては見られなくなっていく。 はじめは私が持っているもの だったはずなのにいつの間にか、 「これがあるから、私は私でいられる」 というものへ変わっていく。 だから本当に怖いのは、何かがなくなることだけではない。 それを失ったあとの自分が、誰なのかわからなくなることなのかもしれない。 ? 例えば、大切な人との別れを想像したとき、私たちは「この人がいなくなるのが怖い」と思う。もちろん、それも本当だ。 けれどその恐怖をもう少し丁寧にほどいてみると、失いたくないものはその人ひとりではないことに気づく。 ? 誰かを失うということは、その人ひとりが人生から抜け落ちるだけではない。 その人と一緒にいることで存在していた、ひとつの自分まで失うことなのだ。 ? だから別れは、あんなにも苦しい。 人をひとり失っただけなのに、世界そのものが少し違って見える。 いつもの駅も、いつもの店も、いつもの曲も、同じ季節さえも、以前と同じ意味を持たなくなる。 ? 私たちは人を所有していたわけではない。 それでもその人と結びついた自分の世界を、確かに持っていた。 その世界が壊れるから、私たちは必死になる。 離れないでほしい。私を必要としていてほしい。どれも、愛する人に抱く自然な願いだ。 ? けれどその願いを突き詰めていくと、少し怖い場所へ辿り着く。 あなたを愛している という気持ちと、 あなたに変わってほしくない という願いは、 本当に同じものなのだろうか。 愛しているから、そばにいてほしい。 その気持ちはきっと嘘ではない。 けれど 愛しているから、ずっと私の知っているあなたでいてほしい。 愛しているから、私を選び続けてほしい。 ? そう願い始めると、愛は少しずつ所有に近づいていく。 大切にすることと、変わらないように固定することは違う。 人は変わる。自分も変わる。 昨日好きだったものを、十年後にも好きでいる保証はない。 ? すべては少しずつ動いている。 それなのに私たちは、変わり続ける世界に向かって、 「これだけは変わらないで」 と願ってしまう。 執着とはもしかすると、変化するものに、永遠であることを求めてしまう心なのかもしれない。 鳳条 暦

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  • 09/05 17:15

    貴方と見る後編

     そして、ここには少し皮肉な逆転がある。 ベンヤミンは、複製技術によって芸術作品のアウラが失われていくことを論じた。 しかしAIによって「複製できるもの」が極限まで増えていった先で、私たちは再び「複製できないもの」に価値を感じるようになるのかもしれない。 実際にその場所にいたこと。 誰かと同じ時間を過ごしたこと。 自分自身が経験したこと。 長い時間をかけて築いた信頼関係。 身体感覚。 記憶。 人生そのもの。 これらは、似たものを生成することはできても、完全に複製することはできない。 AI時代とは、すべてが人工物になっていく時代ではなく、むしろ「何が人間にしか持てないのか」が、これまで以上にはっきりしていく時代なのかもしれない。 複製技術の時代に価値が「礼拝」から「展示」へ移ったのだとすれば、 AI時代には、価値はさらにその先へ進み、 何をつくったか から なぜそれをつくったのか へ。 何を知っているか から どう捉えるか へ。 どれだけ見られたか から 誰と、どのような関係を築いたか へ。 移っていくのではないだろうか。 具体的なものが簡単につくれる世界だからこそ、本質を見抜く力が価値になる。 そして無限に生成できる世界だからこそ、 有限で、一回限りで、文脈を持った人間の人生そのものが、再び最も強い「アウラ」を持つようになる。 そんな時代が、これから訪れるのではないかと思う。 旅行 に通ずるものを感じます。 流石です? 鳳条 暦

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  • 09/05 09:45

    貴方と見る前編

     20世紀、ライカのような小型カメラの普及によって、人はそれまで以上に手軽に「一瞬」を切り取れるようになった。 ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』の中で、複製技術が発達することで、芸術作品が持っていた固有の「アウラ」が失われていくと論じた。 ここでいうアウラとは、単なる希少価値ではない。 「その場所に、その時、その作品そのものが存在している」という、一回性や歴史性を含んだ特別な存在感である。 かつて芸術は、宗教儀式や祭祀などと結びついた「礼拝価値」を強く持っていた。 しかし写真や映画など、作品を大量に複製し、多くの人へ届けられる技術が生まれたことで、芸術は次第に「どれだけ多くの人に見られるか」という「展示価値」を持つようになった。 そして現代を見ると、この変化はさらに先へ進んでいるように思う。 Web2.0によって、誰もが自分の写真や文章、生活、思想を発信できるようになった。 すると展示される対象は芸術作品だけではなく、「自分自身」にまで広がった。 SNSのフォロワー数、再生数、「いいね」の数。 私たちは知らないうちに、自分という存在の展示価値を競う時代を生きるようになったのかもしれない。 しかしAIが急速に発達した今、その展示価値さえも大きく変わろうとしている。 美しい写真も、上手な文章も、音楽も、映像も、ある程度まではAIによって大量に生み出せるようになった。 つまり、「上手につくること」や「具体的な成果物をつくること」そのものの希少性は、これからますます低下していく可能性がある。 さらに情報やコンテンツが一人ひとりに最適化されていけば、私たちは同じテレビ番組を見たり、同じ雑誌を読んだり、同じ流行を共有したりする社会から、それぞれが自分専用の情報世界を生きる社会へ移っていく。 「大衆の時代」から「個の時代」へ。 そしてその先には、「究極の個別最適化の時代」があるのかもしれない。 そこで興味深いのは、AIによって具体的なものが簡単につくれるようになるほど、人間には逆に「抽象的に考える力」が求められるようになることである。 具体的な答えはAIが出してくれる。 文章も書ける。 画像もつくれる。 情報も整理できる。 だからこそ重要になるのは、 「そもそも、なぜそれをするのか」 「この出来事の背景には何があるのか」 「一見別々に見えるものには、どんな共通構造があるのか」 と問い続ける力なのだと思う。 つまり、概念、本質、構造、関係性を捉える抽象的思考である。 さらに言えば、人間を理解するときにも、目の前に現れている行動 だけを見るのでは不十分になっていく。 その人が何を経験してきたのか。 どのような人間関係の中で生きてきたのか。 何を恐れ、何を大切にしているのか。 同じ言葉であっても、その人の過去や価値観によって意味は変わる。 だからこれから重要になるのは、情報そのものよりも、その情報の背後にある「コンテキスト」を読む力なのではないだろうか。 鳳条 暦

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  • 09/04 09:30

    信じなくてもいい後編

     考えてみれば私たちは、いつから 生きるためには意味が必要だ と思うようになったのだろう。 何のために生きるのか。何者になりたいのか。 人生で何を成し遂げたいのか。 そういう問いに答えられる人はきっと強い。 でも答えられない人の人生に意味がないわけではない。 ? むしろ人生の大部分は、そんな大きな意味とは関係のない時間でできている。 今日食べたものがおいしかった。 帰り道の風が少し気持ちよかった。 眠る前に布団の中が暖かかった。 ? そんなことは、人生を劇的には変えない。 明日を生きる壮大な理由にもならない。 でもその瞬間だけは確かに、 「今日、生きていて悪くなかった」と思わせてくれる。 ? 人生には、それくらいの理由しかない日があってもいいのではないだろうか。 もしかすると私たちは、「生きる意味」と「生きる理由」を混同している。 意味は分からなくても、理由なら今日の中にいくつかある。 一日が終わる。翌朝になったら、また一日だけ生きる。 そうして意味も分からないまま何年か生きたあと、ある日振り返って、 あの時間があったから、今ここにいるのかもしれない と思うことがある。 ? 人生の意味というものは、最初から用意されていて、それを見つけた人だけが生きられるものではないのだと思う。 生きている途中では意味の分からなかった時間に、後から意味が宿ることがある。 ? だとしたら意味があるから生きるのではなく、生きてしまった時間にあとから意味を与えていく。 そんな順番でもいい。 ? 現実と向き合う という言葉についても、少し考えたい。 向き合う と聞くと、何かを克服しなければならないような気がする。 ? 考えたところで答えの出ないことだってある。 それなら解決しないまま一緒に生きることも、ひとつの向き合う なのではないだろうか。 ? そう認めたまま、それでもご飯を食べ、お風呂に入り、仕事をして、眠る。 傷を克服した立派な自分にならなくても、傷を持ったまま生活している。 ? それは敗北ではない。 むしろ現実というものはたぶん、そうやって生きることなのだと思う。 そしてここまで考えると、幸せになる ということさえ、人生の最終目的でなくてもいいような気がしてくる。 ? 幸せになりたい。それは自然な願い けれど人生には、自分では選べないことがあまりにも多い。 生まれる場所も、出会う人も、誰かの気持ちも、突然起きる出来事も、完全には選べない。 幸せだけを人生の成功条件にすると、人生の評価を自分では支配できないものに預けることになってしまう。 ? だから幸せになることより先に、 自分の人生を自分へ返していくこと。 それがあるのかもしれない。過去は選べない。 でも今日、誰と会うかは少し選べる。 そんな小さな選択を、自分の手元へ取り戻していく。 ? 人生を取り戻すというと、大きな決断を想像するけれど、本当はそういう些細な選択の積み重ねなのだと思う。 過去に人生を壊されたと思う日があったとしても、今日のすべてまで過去のものにする必要はない。 ? 過去に囚われていてもいい。 未来に希望がなくてもいい。 無理に前向きにならなくてもいい。 ? ただ、 過去だけに今日を決めさせないこと。 未来だけに今日の価値を預けないこと。 ? それだけは忘れたくない。 人生を長い物語として眺めると、苦しくなることがある。 私は何者になるのだろう。この先どうなるのだろう。最後には幸せになれるのだろうか。 ? そんなときは一度、人生を物語として考えることをやめてもいい。 ? 今日は今日だけでいい。 そして明日になったら、また明日のことを考える。 ? それは逃げているように見えるかもしれない。 でも人間の一生を最後まで細かく分解していけば、結局そこに残るのはそういう名前もつかない一日一日なのだ ? だから、希望があるから今日を生きる という順番でなくてもいい。 ? 今日を生きていたら、いつか希望と呼びたくなる何かに出会うかもしれない。 ? それくらいでいい。 ? 未来を信じなくてもいい。 未来に期待できなくてもいい。 ただ未来の自分が何を好きになり、誰に出会い、何を大切にしているのかを、今の自分が全部決めてしまわないこと。 ? 今の悲しみだけを材料にして、まだ存在していない日々に判決を下さないこと。 ? 希望というのは、もしかすると きっと幸せになれる と信じることではない。 ? まだ分からないものを、分からないまま残しておく力なのかもしれない。 ? だからせめて、知らないものを知らないままにしておく。 ? ただ 未来を諦めることと、未来を知らないことは、同じではない。 知らないなら、まだ決めなくていい。 その小さな余白だけを残して、今日を生きていけばいいのだと思う。 鳳条 暦

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  • 09/03 17:45

    信じなくてもいい前編+空き枠のお知らせ

    9/9(水)11:00-、13:15-空いております??♀?お時間が合えばお会いしたいです?? ?  過去に囚われている。未来にも希望がない。それでも生きていかなければならない。 こういう言葉を聞くと、ついその人を未来へ連れていこうとする。 前を向こう。いつかきっと良いことがあるよ。 生きていれば何かが変わるよ。 どれも間違った言葉ではない。 ? ただ本当に過去から抜け出せず、未来を楽しみにする力まで失っているとき、 未来を信じて という言葉は、思っている以上に難しい要求なのだと思う。 ? そもそも、過去というものは本当に「過ぎ去ったもの」なのだろうか。 出来事そのものは終わっている。 けれど、そこで傷ついたこと、失ったこと、選ばれなかったこと、間違えたことは、ときどき現在の自分の中に残り続ける。 ? 過去は記憶として残るだけではない。 いつの間にか、現在を見るための物差しになっている。 だから過去を忘れればいい と言われても、そんなに簡単ではない。 忘れたい出来事によって形作られた自分が、今ここにいるからだ。 ? たぶん必要なのは、過去を消すことではない。 過去の意味を変えることでも、無理に美しい思い出にすることでもない。 「あれは確かに私の人生に起きた。今の私にも影響している。でも、これから起きることまで、あの出来事に決めさせる必要はない」 そうやって少しずつ、過去に渡してしまった決定権を自分へ返していくことなのだと思う。 過去から自由になるというのは、忘れることではなく、過去を自分の人生の一部にまで小さくしていくことなのかもしれない。 ? そしてもうひとつ、私は 未来に希望を持つこと が生きるための絶対条件だとも思っていない。 ? 未来に希望がないと言うと、とても暗い状態のように聞こえる。 けれど何度か期待して、そのたびに傷ついた人にとって、希望を持たないことは自分を守る方法でもある。 期待しなければ、失望しなくて済む。 信じなければ、裏切られなくて済む。 「きっと良くなる」と思わなければ、良くならなかったときの落差も小さい。 ? だから未来を信じられない自分を、無理に変えなくてもいいのだと思う。 「いつか幸せになる」 「絶対に人生は良くなる」 そんなことを言い聞かせなくてもいい。 ? 未来なんて、本当は誰にも分からない。 良くなる保証もなければ、悪くなると決まったわけでもない。 ? だったら未来に対して持つべきものは、強い希望ではなく、もっと小さな余白なのかもしれない。 分からないから、とりあえず決めないでおこう。それくらいでいい。 未来を信じられなくてもいい。 ただ、まだ会ったことのない人を嫌いだと決めないように、まだ訪れていない日々まで不幸だと決めつけない。 ? 今の自分には想像できない何かを、未来の自分が好きになるかもしれない。 今なら選ばないものを選ぶかもしれない。 知らない街を好きになるかもしれない。 どうでもよかった人が大切になるかもしれない。 逆に今すべてだと思っているものを、いつか平気で手放しているかもしれない。 人は、自分が思っているほど自分の未来を知らない。 だから未来を信じる必要はなくても、未来を決めつけないことくらいはできる。 私はそれを希望より少し弱くて、でも希望より誠実なものだと思う。 鳳条 暦

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  • 09/03 09:45

    短話:好きな考え

     他人と、過ぎてしまった結果は変えられない。 ? 変えられるのは、それをどう受け取り、これからどう生きるかだけ。 ? 誰かに理解されることを求める前に、まずその人を理解する。 誰かを満たそうとする前に、まず自の心を満たす。 ? 幸せを他人の手に預けなければ、嫌われることも少し怖くなくなる。 ? 自由とは、誰にも嫌われないことではなく、 誰かに嫌われても、自分の心で幸せを選べることなのだ。 ? 鳳条 暦

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  • 09/02 09:30

    継続ではないのかもしれない

    ?  何かを続けられる人は自分以外は意志の強い人なのだと思っている。 毎日決まった時間に起きて、運動をして、本を読んで、勉強をして。決めたことを淡々と積み重ねられる人。 私がそうだし、そういう人だけが何かを長く続けられるのだと思っていた。 けれど自分の人生を振り返ってみると、長く続いているものほど、案外きれいには続いていない。 夢中になっていた時期があって、忙しくなってしばらく触れなくなって、それでもある日、何事もなかったようにまた始めている。 そう考えると、続ける という言葉を私は少し勘違いしていたのかもしれない。 継続とは、一度も立ち止まらないことではない。 立ち止まったあと、また戻ってこられることなのだと思う。 ? 多くの人は何かを始めるとすぐに 続けなければ! と思う。 そして一日できなくなる。気づけば一週間が経っている。 できなかった一週間よりも、また続かなかった という事実のほうが重くなってしまう。 本当は一週間休んだだけなのに、そこで自分の中に失敗 という名前をつけてしまう。 そして不思議なことに、人は一度失敗した と思ったものには戻りづらくなる。 また始める という大袈裟な決意が必要になってしまう。 だから、もしかすると継続を難しくしているのは、休んでしまうことではない。 休んだ自分を許せないことなのかもしれない。 ? そもそも、モチベーションというものは、あまり信用できるものではない。 昨日はあんなに頑張ろうと思っていたのに、今日は何もしたくない。 誰かに褒められただけで何時間でも頑張れたり、些細なことで傷ついただけで、全部どうでもよくなったりする。 そんな不安定なものに、自分の人生を任せて、 「これから毎日、私をやる気にさせてください」とお願いするほうが、少し無理がある。 続けられる人というのは、ずっとモチベーションが高い人ではないのだと思う。 むしろ、 モチベーションがなくなる日が来ることを、最初から知っている人なのだと思う。 一度全部放り出してしまう自分もいる。 それを 想定外の自分 にしない。 今日の私は頑張れる。 でも、来月の私は頑張れないかもしれない。 そのときに、「こんなはずじゃなかった」と責めるのではなく、「まあ、そういう時期もある」と言える余白を残しておく。 自分という人間を長い目で扱うということ。 ? だから私は、何かを続けるためには、 頑張れる環境より、戻ってこられる環境を残しておくこと のほうが大切。 それは単なる物の話ではない。未来の自分のために、入口を残しておくということだ。 いつかまた、「ちょっとやろうかな」と思った自分が、何の決意もなく帰ってこられるように。 「再挑戦」にしてしまうから重たくなる。 本当はただ、 久しぶりに帰ってきただけ なのだ。 ? そしてここまで考えていると、継続というのは習慣の問題だけではないような気がしてくる。 もっと根っこのところでは、 自分と自分との関係の話なのではないか。 自分を信用していないと、人は自分を厳しく管理したくなる。 今日やらなかったら、明日もやらないかもしれない。一度休んだら、このまま全部投げ出してしまうかもしれない。 だから自分に約束させる。 ? 自分を信頼できている人は、 今日はできなくてもいい。今は離れてもいい。 だって私は、本当に必要なものなら、また戻ってくるから。そう思える。だから休める。 だから離れられる。 そして皮肉なことに、離れることを許されたものほど、長く続いたりする。 自分との関係も、きっと同じなのだと思う。 四六時中自分を監視して問い詰め続けるより、少しくらい好きにさせて、 それでも帰ってくる自分を待っていられるほうがいい。 ? 人生もきっと、そういうものなのだと思う。 いつでも前向きでいられるわけではない。 自分自身を好きでいられない時期だってある。 それでも、そのたびに人生そのものを 失敗 にしなくていい。 人生の中には、途中で置いてきたものがたくさんある。 それらすべてを続かなかったもの と呼ばなくてもいいのかもしれない。 もしかすると、 まだ続きを始めていないだけなのかもしれない。 長く続くということは、一度も途切れない一本の線を引くことではなく、 途切れ途切れになりながらも、何度も同じ場所を選び直していくこと。 そして最後に振り返ったとき、たくさんの空白まで含めて一本の線に見えたものを、私たちはきっと、 「続けてきた」と呼ぶのだろう。 ? 鳳条 暦

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  • 08/31 09:30

    短話:諦

    諦めがついたら、気持ちはどこにも行かなくていいのだと思う。 ? 好きだったことも、叶えたかったことも、消えてしまうわけではない。ただ、自分の中で居場所が決まる。 ? 行き場をなくして暴れていた気持ちが、ようやく自分の一部として静かに収まっていく。 ? 忘れることが、諦めることではない。 もう追いかけなくても大切にできるようになることが、諦めなのかもしれない。 鳳条 暦

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  • 08/30 20:15

    短話:誠実でいたい

    おもしろい文章を書く人は、出来事そのものがおもしろいのではなく、自分の心を誤魔化さずに見ている。 ? 格好悪い嫉妬も、矛盾した願いも、言葉にするほどではない寂しさも、本当はこうだった と認めて書く。日記に宿る誠実さとは、誰かに正しく伝えることではなく、自分の本音を、自分だけは見捨てないことなのだと思う。 ? だから、おもしろい日記にはその人の人生よりも、その人が自分をどう見つめているかが表れる。 文章のおもしろさは、表現力よりも、自分に対してどこまで嘘をつかずにいられるかで決まるのかも ? ただ自分に誠実であることは、思ったことをすべて正しいと信じることではない。醜さも弱さも認めたうえで、自分に問うこと ? 日記とは、誰にも見せない自分にだけは、嘘をつかないための場所なのかもしれない。 鳳条 暦

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  • 08/30 14:31

    お知らせ?

    来週と現在予約できる全ての枠を満たしていただきました?? 頑張っている自分にとっては貴方と会える時間が少しだけホッとする時間です。 新しいものに満ちていて、刺激的で、でもなぜか落ち着いてしまうそんな時間を過ごしたい。 明日からもよろしくお願いします??♀? 鳳条 暦

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  • 08/30 10:01

    短話

    自信とは、逃げたかった日に逃げなかった記憶だ。 ? 怖さを忘れることではなく、それでも自分との約束を守れたということ。 ? だから次に心が揺れたときも、「あの日の自分なら」ともう一度踏ん張れる。 鳳条 暦

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  • 08/29 17:30

    幸福論

    他人の幸せを自分の不幸に変換しないこと。 これは案外難しい。 ? 昨日までそれなりに満足していたはずなのに、同年代の誰かが結婚したと知ると、急に自分だけ取り残されたような気持ちになる。 誰かがいい家に住み始めれば、自分の部屋が少し狭く見える。 仕事で成功した人を見れば、それまで悪くないと思っていた自分の仕事が、急につまらないものに思えてくる。 誰かが愛されているのを見れば、自分が愛されていないような気さえしてしまう。 ? けれど、よく考えてみれば不思議な話だ。 その人が結婚したことで、私から何かが奪われたわけではない。 その人が成功したからといって、昨日までの私の努力が無かったことになるわけでもない。 私の部屋は昨日と同じ広さで、私の持っているものも、私を好きでいてくれる人も、昨日と今日で何ひとつ減ってはいない。 それなのに、満足だけが減ってしまう。 ? 比較というものはときどき現実を変えないまま、自分の人生につけていた点数だけを書き換えてしまうらしい。 だからといって、人と比べない人になろう とするのも、少し違う気がしている。 ? 人を見て羨ましいと思うことは、そんなに悪いことではない。 綺麗なものを持っている人を見れば欲しくなるし、愛されている人を見れば私も愛されたくなる。 自由そうな人を見れば自由が欲しくなるし、何かに夢中になっている人を見れば、自分にもあんなものがあればと思う。 羨ましさは醜い感情として扱われがちだけれど、本当はそこまで悪者ではないのかもしれない。 ? むしろそれは あなたは、本当はこれが欲しいんじゃない?と、自分でも気づいていなかった欲望を教えてくれることがある。 羨ましいと思わない人になりたいのではなく、羨ましさを自分を傷つける材料にしない人でいたい。 ? 一枚ずつ剥がしていくと、他人の人生は、自分の価値を測る物差しではなくなる。 代わりに、自分の欲望を映してくれる鏡になる。 ? 何を手に入れたら私は幸せになれるんだろう  という問いは、少し大きすぎるのかもしれない。そんなふうに人生全体の正解を探そうとすると、どうしても世間に用意された答えを借りたくなる。 ? もっと小さな問いでいい気がしている。 どんな朝なら機嫌よく起きられるのか。誰と食べるご飯が好きなのか。どんな服を着ている自分が好きなのか。どんな働き方なら、自分を嫌いにならずに済むのか。何をしている時間だけは、誰かに評価されなくても続けたいと思えるのか。 ? 他人と比べないことが大切なのではないと思う。生きていれば、どうしたって比べる。 羨ましい日もある。誰かの幸せを見て、自分だけ何も持っていないような気持ちになる夜だってある。でもそれでいい。 ? 他人の幸せを見てもいい。 眩しくて、少し目を細めてもいい。 ? 幸せとは、誰より多く持っている状態ではなく、自分が好きだと思える人生を少しずつ自分の方へ引き寄せていくこと。 鳳条 暦

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  • 08/28 09:30

    愛着せず

    愛着せず ? 大切にすることと、手放せなくなることは、きっと違う。 思い出の品を捨てられないのは、物そのものではなく、そこにあった時間まで失ってしまう気がするからなのかもしれない。 けれど、思い出は物の中にあるわけではない。 誰かにもらったものが大切なのは、その人と過ごした時間や、そのときの自分の気持ちが残っているからだ。 ? これは人との関係にも似ている。 愛することと、所有することは違う。大切だからと握りしめすぎれば、愛はいつしか執着になる。物も、人も、時間も、いつか形を変えていく。 だから失わないことよりも、 あるうちにちゃんと愛すること。 ? そして手放すとき、もうここになくても私の中には残っている と思えたなら それでいい。 人生の最後まで持っていけるものは何もない。 それでも、そこで感じたことだけは、きっと自分の中に残っていく。 鳳条 暦

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  • 08/27 09:34

    空き枠のお知らせ?

    先週に空き枠のお知らせを忘れていました??♀? 8/31(月) 11:00- 9/1(火) 11:00-、13:15- 9/2(水) ?13:15- ? あっという間に夏休みが終わり、テストに追われていますが、 9月は自身の誕生月ということもあり、ワクワクしている部分もあります? お店に来るまでは誕生日を祝うことも祝われることも少なかったので、 今はそれが楽しみなこと自体が不思議な気分です? ありがとう?? 自分は貴方のおかげで今とても楽しいです。 鳳条 暦

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  • 08/26 09:45

    短話:言うもん

    人生は、いつ終わるかわからない。 ? だからといって、好き勝手に生きられるほど、私はわがままじゃない。 ? 嫌でも笑う日があって、言葉を飲み込む夜もある。それもきっと、生きることの一部なのだと思う。 ? ただ自分を後回しにすることに慣れすぎたくはない。 ? 死ぬことより怖いのは、もっと自分の人生を生きればよかったと最後に気づくことだから。 ? もしかしたら今を楽しめなくてもいい。せめて自分の気持ちを置き去りにしないで生きていたい。 ? 鳳条 暦

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  • 08/22 21:30

    短話:手を離す

    「これはあなたのために書いたんじゃないんだよ」 そう言われたとしても、別に構わない。 ? あなたが知らないところで、その歌に救われた夜があって、その小説のおかげで少しだけ明日が楽しみになって、その映画や絵を思い出すことで、どうにか今日を好きでいられた人がいる。 ? 創作は、つくった人の手を離れた瞬間から、 誰のためのものになるかを選べなくなる。 作者にとっては、ただの一曲、ただの一冊、 人生の途中でつくった作品のひとつだったとしても、 誰かにとっては、その時の人生そのものになることがある。 ? 「あなたのためじゃない」それでもいい。 ? 私は勝手に受け取って、勝手に心を動かされて、あなたの知らないところで、生きるに値する毎日を過ごしていた。 ? それが創作の、少し不思議で、とても素晴らしいところだと思う。 鳳条 暦

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  • 08/21 09:30

    誰がための自分

    誰も見ていない所でも、常にどういう人間でありたいか。 ? 最近、この問いが頭から離れない。 人は誰かに見られているときよりも、誰も見ていないときに本当の姿が表れると言われる。 だからこそ自分を律するためには罰や評価ではなく、もっと静かな支えが必要なのだと思う。 私はそれを信仰心 のようなものと呼びたい。 ? 宗教を信じるという意味ではない。 もっと小さくてもっと個人的なもの。 「こういう人間でありたい」という、自分だけが知っている約束。 それがある人は、誰も見ていない場所でも、自分を裏切らない。 ? 今はあまりにも情報が多い時代だ。 SNSを開けば誰かの成功が流れ、誰かの正しさが流れ、誰かの幸せが流れてくる。 何が正しいのか、何が美しいのか、何を選ぶべきなのか。 世界は絶えず答えを差し出してくる。 便利になった反面、人は自分の答えを持つ前に他人の答えを浴び続けるようになった。 すると知らないうちに、自分が何を信じていたのかさえ分からなくなる。 昨日まで大切だった価値観が、誰かの一言で揺らぐ。 誰かの評価一つで、自分の価値まで変わったような気がしてしまう。 情報が多いということは、選択肢が増えたということでもある。 しかし同時に、自分という軸を失いやすくなったということでもある。 ? だから私は人には何か一つ、自分だけの信仰 が必要なのだと思う。 それは神様でなくてもいい。 哲学でも、本でも、一人の作家でも、一つの言葉でもいい。 この考え方だけは最後まで手放したくない。 そんな小さな灯火があるだけで、人は迷いながらも歩いていける。 信仰とは世界の正しさを信じることではない。 自分がどう生きたいかを、忘れないための装置なのかもしれない。 ? 人生には誰も褒めてくれない選択がある。 落ちているゴミを拾うこと。 陰で誰かを悪く言わないこと。 約束を守ること。 嘘をつかないこと。 感謝を口にすること。 そんな行動は、拍手も賞賛も生まない。 けれどその積み重ねが人格になる。 人格とは誰かに見せるためのものではなく、誰も見ていない場所で繰り返した選択の総和なのだと思う。 だから私は、見られているから正しくある のではなく、見られていなくても、この人でありたい と思える自分でいたい。 ? 海が誰も見ていなくても波を打ち、星が誰も見ていなくても夜空を照らすように、人もまた誰かの視線ではなく、自分の信じるものによって生きられたら美しい。 結局、人を最後まで支えるのは他人の評価ではない。 「私はこういう人間でありたい。」 その静かな祈りだけが、人生のあらゆる雑音を越えて、自分を前へ運んでくれるのだと思う。 ? 鳳条 暦

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  • 08/20 09:45

    ち い か わ2

    その問いから、大岡昇平の小説『野火』に登場する「猿の肉」を連想した。 『野火』では、敗戦間近のフィリピン・レイテ島で、日本兵たちが激しい飢餓に追い詰められていく。主人公の田村一等兵は、「猿の肉」だと言われ、干した肉を差し出される。しかし、それは本当の猿ではなく、死んだ兵士、あるいは殺された人間の肉であることが示されている。 なぜ、人間の肉を「猿の肉」と呼んだのだろう。 猿は人間に近い姿をしている。しかし、人間ではない。 「これは人間ではない。猿なのだ」 そう言い換えることで、食べる側は、自分たちのしていることの恐ろしさから目をそらすことができる。 つまり「猿の肉」は、単なる嘘や隠語ではない。 それは、人間を人間と思わずに済ませるための言葉であり、自分の行為を自分自身から隠すための言葉でもある。 人肉だとはっきり認めてしまえば、自分が越えてはいけない一線を越えたことを直視しなければならない。 だから名前を変える。 「人」を「猿」に置き換えることで、殺された誰かを、人格のある一人の人間ではなく食料として扱えるものに変えてしまう。 戦争の中では、こうした言葉の置き換えが繰り返される。 人を殺すことを処理と呼び、死を損耗と呼び、奪うことを作戦と呼ぶ。 言葉を抽象的にすることで、その向こうにある身体や苦痛を見えにくくする。 「猿の肉」もまた、言葉によって罪悪感を薄めるためのものだったのかもしれない。 けれど、『野火』の恐ろしさは、「悪い人間が人を食べた」という単純な話ではないところにある。 飢餓によって倫理や常識が崩れ、生き延びるために、他者を人間ではなく、食料として見始める。 戦争は、人の命を奪うだけではない。 人間を人間として見る感覚そのものまで破壊してしまう。 食べなければ死ぬという状況では、平時なら絶対に越えないはずの境界が崩れていく。 人を食べてはいけないという倫理よりも、空腹や死への恐怖の方が強くなる。 けれど、たとえそれが生き残るための行為だったとしても、戦争が終わり、日常に戻った瞬間、その経験は語れないものになる。 戦場では生きるために必要だった行為が、平和な社会では罪や恥として扱われる。 その人は命だけでなく、誰にも話せない記憶まで抱えて帰ってきたのだと思う。 生き残ったことを素直に喜ぶこともできない。 食べたことを告白することもできない。 忘れたくても、身体が覚えている。 戦争の悲惨さは、死者の数や戦況として語られることが多い。 それは英雄的な物語でも、抽象的な悲劇でもない。 人の肉を噛み、舌で味わい、それによって自分の命をつないだという身体の記憶である。 戦争が終わっても、その味は、口の中から完全には消えなかったのではないか。 普通の食事をするときにも、肉を見たときにも、ふと蘇ることがあったかもしれない。 そして、その記憶を誰にも話せなかったのだとすれば、生き残ることは、それだけで救いだったとは言い切れない。 戦争は、生き残った者にまで罰を与える。 死なずに帰ってきた代わりに、平和な世界では理解されない記憶を一生背負わせる。 『ちいかわ』の映画を観た後に残ったのも単純な怖さだけではなかった。 かわいい、楽しい、仲間を大切にしたいという気持ちのすぐそばに命は誰のものなのか、誰かの犠牲によって得た幸せを受け入れられるのか という問いが残った。 『ちいかわ』の登場人物たちは、とても小さく、強い存在ではない。 だからこそ、自分一人の力ではどうにもならない世界で、それでも友達を助けようとする姿が心に残る。 極限状態では、自分だけが助かりたいと思っても不思議ではない。 それでも、誰かを見捨てず、食べられる側の痛みを想像しようとすること。 それがこの物語の中で、人間性に近いものとして描かれていたように感じた。 見た目のかわいさとは反対に、『ちいかわ』は、「弱い者が優しくあり続けることの難しさ」を描いているのだと思う。 力があり、余裕があるときに優しくするのはそれほど難しくない。 けれど自分も怖くて、苦しくて、助かりたいと願っているときに、それでも他者の命を命として見ることができるのか。 そこに本当の優しさが試される。 『野火』における「猿の肉」は、人肉を人肉と思わずに済ませるための偽名だった。 それは生き延びるために、他者を人間として見ないようにする言葉だった。 一方、『ちいかわ』の映画では、食べられる側にも感情があり、関係があり、生きたいという願いがあることを、かわいい姿を通して否応なく見せられる。 だから食べることをただの行為として切り離せない。 食べ物の向こうに命が見えてしまう。 その点で、二つの作品は正反対の方向から、同じ境界を描いているように思う。 『野火』では、人間を食べるために、その存在を「猿」と呼び、人間性を見えなくする。 『ちいかわ』では、食べられようとする存在にも心や物語を与え、見えなくされていた命をもう一度こちらに見せる。 見ないことで食べられる。 見えてしまえば、簡単には食べられない。 その差は、他者を命として想像できるかどうかにある。 私たちは普段、食べる側の視点で世界を見ている。 食卓に並んだ肉を見ても、それがかつて一つの命であり、身体であり、何かを感じる存在だったことを意識し続けるのは難しい。 そうしなければ、日常的に食べることができないからでもある。 つまり私たちも程度は違っていても、名前や形を変えることで、「命だったもの」を「食べ物」として受け入れている。 けれど人間の肉の場合、その変換は簡単にはできない。 食料と人間との境界が崩れた瞬間、自分自身もまた、誰かにとっての食料になり得る存在だと気づいてしまうからだ。 『野火』における「猿の肉」は、その境界を無理やり曖昧にする言葉だった。 『ちいかわ』の映画を観て、私は、命の重さを理解することは、ただ「かわいそう」と思うことではないのだと感じた。 自分が助かる側にいるときにも、犠牲になる側の存在を忘れないこと。 自分の大切な者を救いたいと願いながら、そのために傷つく別の誰かにも目を向けること。 その両方を同時に考え続けることが命を命として見るということなのかもしれない。 戦争の本当の恐ろしさとは、人を死なせることだけではない。 人間に、人間であることを一時的に捨てなければ生きられない選択をさせること。 そして、生き残った後も、その人に、自分が人間であることを疑わせ続けることなのだと思う。 そして『ちいかわ』の映画は、かわいらしい物語の姿を借りて、その包まれていたものを、もう一度こちらに見せてきた。 食べられるものにも、命がある。 生き残る者にも、罪が残る。 そして自分が生きたいと願うことと、他者を犠牲にしたくないと願うことは、ときに両立しない。 その答えの出ない残酷さを、あえて小さくてかわいい存在たちに背負わせたからこそ 私はこの映画をただ楽しかった、怖かったという言葉だけでは終わらせられなかった。 生きるということが、ときに善悪では整理できないほど残酷になること。 人間は極限状態で、他者を人間として見られなくなることがあること。きっとどこまでいっても私たちは小賢しい生き物なのでしょうね もう一回くらい映画みたいな? 鳳条 暦 ?

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  • 08/19 09:45

    ち い か わ1

    ち い か わ なんかちいさくてかわいいやつ 愛くるしくてこんなにも可愛らしいだけにも思えるのに、多くの大人を巻き込んで映画は大ヒット。まだ上映しております? 『ちいかわ』の映画を観ながら、どこかで聞いた話を思い出した。 戦時中、人の肉を食べて生き残った人がいたのだと 「味は酸っぱかったらしい。でもそれは誰にも言ってはいけないことだったんだ」 私はおそらくその話の意味をよく理解していなかった。ただ人の肉を食べたという恐ろしさと、「誰にも言ってはいけない」という言葉だけが、妙に生々しく記憶に残った。 なぜ、『ちいかわ』の映画を観て、その話を思い出したのだろう。 ちいかわたちは、見た目だけなら小さくてかわいい存在たちが暮らす優しい物語に見える。ちいかわたちは食べ物を喜び、友達と笑い、ささやかな幸せを大切にしている。 けれど、その世界にはいつも、かわいさだけでは覆いきれない残酷さがある。 食べること、生きること、奪うこと。 誰かの願いが、別の誰かの犠牲の上に成り立っていること。 映画の中でも、その不穏さは、かわいらしい絵柄や明るい場面のすぐ隣に置かれていた。 だからこそ私は怖かった。 初めから暗く残酷な物語であれば、見る側も身構えることができる。しかし、『ちいかわ』の登場人物たちは、私たちが守りたくなるほど無垢で、素直で、弱い。 その存在たちが、命や犠牲に関わる問題に巻き込まれることで、「これは空想の中だけの話ではない」と感じてしまう。 生きるということは、ただ美しいだけではない。 どれほど優しい者でも、生きるためには何かを食べ、何かに守られ、時には誰かの犠牲によって助けられている。 映画を観ている間、私は、登場人物たちに幸せでいてほしいと思っていた。 誰も傷つかず、誰も失われず、いつものように食べ物を囲んで笑ってほしい。 けれど、その「幸せでいてほしい」という願いさえ、場合によっては別の存在の犠牲を見えなくする。 自分の好きな者だけが助かればよいのか。 その幸せのために、名前も知らない誰かが傷ついていたとしても、私たちは目をそらしてしまうのではないか。 『ちいかわ』の怖さは、悪者と善人を簡単に分けないところにある。 何かを求める者にも事情があり、生きたいと願う者にも理由がある。 しかし、その切実な願いが、別の命を奪うことにつながる。 「生きたい」という気持ちは本来、責められるものではない。それでも、自分が生きるためなら、他者を犠牲にしてよいのかという問いは残る。 鳳条 暦 後編へ続く ?

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  • 08/18 09:00

    短話

    他人に迷惑をかけない限り、 私には私を破滅させる権利がある ? 間違うことができるのも、自分の人生だけに許された自由です。 鳳条 暦

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