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07/13 09:45
レベル999.9
また楽しみが増えてしまって??
また約束が増えました?
毒気を抜かれるような貴方の癒しっぷりには私の頬にも自然に笑みが宿ります
20の質問の答えも気になるし、東京には仕事で行くのに貴方に話すためウロウロしたいな
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と思っていたらこの日記は東京から帰ってからの投稿となりました。
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合わせ鏡と山びこ
この世は合わせ鏡か山びこか
我になき理はうつることなし
目は、目そのものを見ることができない。まぶたの裏側に隠れた小さな器官は、外界のあらゆるものを映しながら、自分自身の姿だけは決して捉えられない。見るためには鏡という他者が要る。ガラスの表面に銀を貼りつけただけの、ただの物質が要る。
私という現象も、
同じ構造を持っているのではないか。
私は私を直接見ることができない。だから世界がある。現実という名の鏡が、私を映し返すために置かれている。目の前に広がる山も、街も、すれ違う他人の顔も、雨の匂いも──それらすべてが、実は私の裏側なのかもしれない。
世界=私を映す鏡。世界=私の現れ。
そう思った瞬間、目眩がした。私が世界を見ているのではない。宇宙が、自分自身を私 という一点を通して見ている。
私は観測者ではなく、宇宙が自分を確認するための、無数にある覗き穴のひとつにすぎない。
これがこの世界がつくられた理由だとしたら。世界の目的は、
ただ一つ──「私」を「私」自身に見せること。
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鏡という比喩には、ひとつの?が混じっている。
鏡は対称だ。私が右手を挙げれば、鏡の中の私は左手を挙げる。時間差はない。呼応は即座で、完全で、そこに遅れはない。だが実際の私と世界の関係は、そんなに行儀がいいものだろうか。
冒頭に置いた歌が、鏡だけでなく山びこを呼び出したのには理由がある。山びこは鏡ではない。声を発してからそれが谷にぶつかり、質量を持った空気を震わせ、遅れて、少し歪んで、こちらへ還ってくる。合わせ鏡が即時の相似だとすれば、山びこは遅延した反響だ。
だとすればこう考え直せる。私は世界を見て、その場で自分を知るのではない。私は世界に向かって、何かを投げかけている──声にならない声、行い、選択、傷、愛し方の癖。
それが世界という谷にぶつかり、少し時間を置いて、少し形を変えて、私のもとへ谺として還ってくる。他人の反応、起きた出来事、繰り返される人間関係のパターン。それらはすべて、
かつて私が投げたものの、遅れた木霊なのかもしれない。
私の内に無い道理は、決して映らない。鏡であれば、これは静的な真実だ。私に無いものは、この一瞬、映りようがない。だが山びこであれば、これは動的な真実になる。私の内に無い理は、いつまで待っても谺として還ってこない。逆に言えば、還ってきたものはすべて、かつて確かに私の内にあった何かの痕跡だということになる。
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西田幾多郎は、自己が自己を知るということそのものが、自己を自己から分離させ、映し合わせる運動によってしか成立しないと考えた。
見る者と見られる者が同一でありながら、同一であるがゆえに直接には出会えない──その矛盾を彼は自覚と呼んだ。
華厳仏教が説く因陀羅網もまた、無数の宝珠が互いを映し合い、一つの珠の中に全宇宙が映り込むという世界像を描いている。
ライプニッツのモナドも、窓を持たないまま、内側に宇宙の全体を畳み込んでいるとされた。
洋の東西を問わず、優れた知性たちは同じ場所に別々の道から辿り着いていたのかもしれない。
私と世界は、向かい合う二つの実体ではなく、ひとつの運動が二つの名前を持っているだけなのだ と。
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私は宇宙そのものであり、同時に宇宙にとってはまだ聞き終えていない反響でもある。世界は私を映す鏡であり、同時に、私がかつて放った声がまだ谷を渡っている途中の、山びこでもある。
宇宙は私を通して自分を見ているのではなく──おそらく、まだ自分を聞き終えていない。私という一点から放たれた谺は、今もどこかの谷にぶつかり続けていて、還ってくるたびに、少しずつ形を変えながら、宇宙にお前はこういうものだったのか と教えている。
私が世界を見ているのではない。世界が、私を通して、まだ鳴り終わらない自分自身の声を、聞いている途中なのだ。
鳳条 暦
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合わせ鏡と山びこ
この世は合わせ鏡か山びこか
我になき理はうつることなし
目は、目そのものを見ることができない。まぶたの裏側に隠れた小さな器官は、外界のあらゆるものを映しながら、自分自身の姿だけは決して捉えられない。見るためには鏡という他者が要る。ガラスの表面に銀を貼りつけただけの、ただの物質が要る。
私という現象も、
同じ構造を持っているのではないか。
私は私を直接見ることができない。だから世界がある。現実という名の鏡が、私を映し返すために置かれている。目の前に広がる山も、街も、すれ違う他人の顔も、雨の匂いも──それらすべてが、実は私の裏側なのかもしれない。
世界=私を映す鏡。世界=私の現れ。
そう思った瞬間、目眩がした。私が世界を見ているのではない。宇宙が、自分自身を私 という一点を通して見ている。
私は観測者ではなく、宇宙が自分を確認するための、無数にある覗き穴のひとつにすぎない。
これがこの世界がつくられた理由だとしたら。世界の目的は、
ただ一つ──「私」を「私」自身に見せること。
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鏡という比喩には、ひとつの?が混じっている。
鏡は対称だ。私が右手を挙げれば、鏡の中の私は左手を挙げる。時間差はない。呼応は即座で、完全で、そこに遅れはない。だが実際の私と世界の関係は、そんなに行儀がいいものだろうか。
冒頭に置いた歌が、鏡だけでなく山びこを呼び出したのには理由がある。山びこは鏡ではない。声を発してからそれが谷にぶつかり、質量を持った空気を震わせ、遅れて、少し歪んで、こちらへ還ってくる。合わせ鏡が即時の相似だとすれば、山びこは遅延した反響だ。
だとすればこう考え直せる。私は世界を見て、その場で自分を知るのではない。私は世界に向かって、何かを投げかけている──声にならない声、行い、選択、傷、愛し方の癖。
それが世界という谷にぶつかり、少し時間を置いて、少し形を変えて、私のもとへ谺として還ってくる。他人の反応、起きた出来事、繰り返される人間関係のパターン。それらはすべて、
かつて私が投げたものの、遅れた木霊なのかもしれない。
私の内に無い道理は、決して映らない。鏡であれば、これは静的な真実だ。私に無いものは、この一瞬、映りようがない。だが山びこであれば、これは動的な真実になる。私の内に無い理は、いつまで待っても谺として還ってこない。逆に言えば、還ってきたものはすべて、かつて確かに私の内にあった何かの痕跡だということになる。
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西田幾多郎は、自己が自己を知るということそのものが、自己を自己から分離させ、映し合わせる運動によってしか成立しないと考えた。
見る者と見られる者が同一でありながら、同一であるがゆえに直接には出会えない──その矛盾を彼は自覚と呼んだ。
華厳仏教が説く因陀羅網もまた、無数の宝珠が互いを映し合い、一つの珠の中に全宇宙が映り込むという世界像を描いている。
ライプニッツのモナドも、窓を持たないまま、内側に宇宙の全体を畳み込んでいるとされた。
洋の東西を問わず、優れた知性たちは同じ場所に別々の道から辿り着いていたのかもしれない。
私と世界は、向かい合う二つの実体ではなく、ひとつの運動が二つの名前を持っているだけなのだ と。
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私は宇宙そのものであり、同時に宇宙にとってはまだ聞き終えていない反響でもある。世界は私を映す鏡であり、同時に、私がかつて放った声がまだ谷を渡っている途中の、山びこでもある。
宇宙は私を通して自分を見ているのではなく──おそらく、まだ自分を聞き終えていない。私という一点から放たれた谺は、今もどこかの谷にぶつかり続けていて、還ってくるたびに、少しずつ形を変えながら、宇宙にお前はこういうものだったのか と教えている。
私が世界を見ているのではない。世界が、私を通して、まだ鳴り終わらない自分自身の声を、聞いている途中なのだ。
鳳条 暦
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<< 2026年7月

































