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鳳条 暦

鳳条 暦

(23)

T164 B83(E) W55 H82

 

11:00 ~ 13:00

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営業時間 11:00-24:00

  • 06/15 17:15

    ガラスの上を裸足のまま歩く

    貴方との約束を果たしました。 お会いした後、早歩きで? もう間に合わないと思ったのですが、早くお見せしたいからという気持ちで身体が動きました。 メロンケーキのお礼はこちらで足りるんでしょうか/// ここから先はおあずけです? ----- 正直に話します。私には大人すぎました? クラスメイトと食べました??♀? これをきっかけにこちらのお土産が地元だよー!みたいな方とも仲良くなれて良い機会をいただけました? ----- 夢って見るもの?醒めるもの? 眠っている間の夢は、心が勝手に上映する映画みたいなものだけど、現実の中で言う夢が醒めるは、信じていた物語から急に温度が抜ける瞬間に近い。 憧れ、人、関係、期待、自分像。 そういうものにかかっていた薄い光がふっと消える瞬間。 だから夢は単なる睡眠中の映像だけじゃなくて、心が現実をそのままでは受け取れないときに、一度 物語に変換する働きなのかもしれない。 睡眠の仕組みで言うと、夢はREM睡眠だけでなくノンレム睡眠中にも起こるけれど、REM睡眠の夢は vivid、つまり鮮明で感情を伴いやすいとされている。 REM睡眠は感情記憶の整理にも関わると考えられていて、日中に処理しきれなかった印象や不安、傷つき、緊張が、夢の中で変な形に組み替えられることがある。? 疲れてガッツリ寝ていると夢を見ない気がするのは、実際には見ていないというより、 覚えていないことが多いと思う。 夢は途中で目が覚めたり、眠りが浅くなったりしたときに記憶に残りやすい。だから、悪夢やよくわからない夢を覚えている日は、心が病んでいるというより、眠りの途中で意識が浮かび上がった日なのかもしれない。 悪夢は、睡眠医学では目が覚めるほど嫌な夢 として扱われることが多い。悪夢そのものより、それで目が覚めたり、翌日に疲れが残ったりすることが問題になりやすい。? でも心理的には、悪夢ってただ怖いものではなく、心がまだ言葉にできていないものを、映像として吐き出している状態にも見える。 不安は、夢の中では追いかけてくる何かになる。 罪悪感は、間に合わない場面になる。 喪失感は、帰れない場所になる。 違和感は、知らない部屋や知らない人になる。 現実ではなんとなく嫌としか言えないものが、夢では象徴になる。 夢は、答えではなくて心の比喩 そして夢が醒める瞬間が現実にもある、という感覚はかなり深い。 幻滅とは少し違う。静かで、もっと冷たい。 醒めることは、必ずしも不幸ではない。 夢の中にいる間、人は守られている。 でも夢から醒めたあと、人は少しだけ本当の場所に立つ。 夢を見ることは、心がまだ何かを信じたいということ。 夢が醒めることは、心が現実に耐えられるところまで来たということ。 夢は心が現実を直接飲み込めないときにつくるやわらかい膜。 眠っている間には映像になり、起きている間には憧れや期待になり、醒めるときには少し痛みになる。 その膜があるから、人は生きられる。 現実だけでは硬すぎるし、夢だけでは帰ってこられない。 夢を見る人は、弱いんじゃない。 現実をそのままでは済ませられないくらい、感受性が深いのだと思う。 そして夢から醒める人は、冷めた人じゃない。 夢にいた自分を失いながら、それでも目を開けている人。 鳳条 暦

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  • 06/15 09:00

    ゴ ヨ ミ

    なんかもう休み増えたり、長くなると余計にたくさん考え、私的に考えは濁るような尖るような? なんとなくコンビニでシャンプを買いました。立ち読みしている人が多いから、そんなに面白いのかなって 自分もアニメや漫画は好きです? なんとなく家で踊りました。下の階の方に迷惑をかけない程度に、ややきついかなくらいまで。 動きを真似ることを集中しているのがちょうどよかったんです。 しかもそれら以上に、なんとなく思いつきで色々しようと思うのですが、案外私はそれが苦手なようでしたね? 休みが長くなるほど、考えは澄むのではなく、濁っていく。静かになればなるほど、底に沈んでいたものが舞い上がる。 何かをしているようで、何もしていない。 何もしていないようで、ずっと何かに追われている。 意味のない行動ばかりしてしまう。 けれど本当は意味がないのではなく、意味を持たせるだけの余白が今の私に残っていないのだと思う。時間的な余白とはまた別であろう。 やるせなさは、泣くほど明確。でも怒るほどには強くもない。 ただ、どこにも置けないまま、身体の内側で余っている。 パスカルは人間はじっと部屋に一人でいられないと言った。 なぜなら、静かになると自分の不安や虚しさが見えてしまうから。 だから人は気晴らしをする。 意味のない検索、スマホ、食べる、片づける、寝る、また起きる。それは怠惰というより、自分の内側に落ちきらないための逃避。 だから私はどうでもいい、なんてことないことをしてしまう。 どうでもいいものに触れて、どうでもいい時間を過ごして、 それでもどこかで、どうでもよくない自分を繋げたい。 崩れないために休んで、動かないでいることもある。 それでも、止まっている私はまだ少し怖い。 進んでいない自分に価値があると、すぐには信じられない。 だから考えは濁る。ときどき尖る。 それはきっと私がまだ、自分を諦めていない証拠。 意味を失わないために、どうにか時間にしがみついているのだ。 暇なのではない。 役割を脱がされた私が、私のままでいることにまだ慣れていないのだ。 コンタクトを外した裸眼の目みたいなものかな?風がね、沁みるんです。 鳳条 暦

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  • 06/14 09:30

    疼く

    年齢というものを、普段わたしはほとんど意識しない。自分が何歳であるか という事実は、日常のどこにも引っかかりを持たない。流れていく。 けれど誰かに助けてもらう瞬間だけ、突然それが形を持つ。 差し伸べられた手、気遣うような声のトーン、こちらを少し上から見るような視線??そのすべてが、鏡として機能する。映し出されるのは、ケアを受けている自分の姿。そしてその姿はをどうしても子どもに見える。 血液検査で倒れた時も見守る若い看護師や医師はとても頼れる大人に見えた。 不思議なことだと思う。弱っていることと、まだ育ちきっていないことは、本来まったく別のはずだ。疲弊した大人はいくらでもいるし、助けを必要とすることは成熟と矛盾しない??頭ではそう知っている。 でもいざ助けてもらうと、その二つがするりと重なる。 弱い=幼い という等式が、気づかないうちに自分の内側に刻まれていたことを知る。 いつ刻まれたのだろう と考える。おそらく、強くあることを自分に課しはじめた  あのころだ。誰かに頼ることを覚える前に、頼らないことを覚えてしまった時期。弱さを見せると何かが崩れると、言葉にならないまま学んだ時期。その学びはとっくに必要なくなったはずなのに、身体のどこかに静かに残っている。 大人になる ということをわたしはどこかで、弱くならないこと と結んでいたのかもしれない。助けられるたびにその結び目を発見する。ほどけないまま、ずっとそこにあった結び目を。 だからといってほどき方もわからない。 助けてもらうたびに発見して、そのたびに少し痛い。 大人になりきれていないのか と問うより先に??大人になることをそんなふうに定義してしまったのは、いつのわたしだったのか とだけ思う。答えは出ない。ただ結び目はそこにある。ほどけないまま、少しだけ疼いて。 鳳条 暦

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  • 06/13 10:01

    心に傘を

    雨の匂いがわかる人がいる。 まだ一滴も落ちていないのに、空気の湿り方で、風の重さで、草や土の匂いで、 あ、降るな とわかってしまう人。 それはきっと自然に対してだけではない。 人の心にも同じように雨の前がある。 いつもより少し遅い返事。笑っているのに、目だけが沈んでいること。何気ない言葉の端に混じる小さな諦めや、疲れや、距離。 気づかない人は気づかないまま通り過ぎる。 わかる人にははっきりとわかってしまう。 まだ何も起きていない。まだ誰も何も言っていない。それなのにもう空気は変わっている。 雨の匂いがわかる人は変化を読む力があるのかもしれない。 けれどそれは便利な才能というより、 少しだけ寂しい感度でもある。 人より早く気づくということは、 人より早く不安になるということ。 人より深く受け取るということは、 人より長く抱えてしまうということ。 だから、気にしすぎなのかな と思っていた時ほど、本当はずっと世界の小さな揺れを受け取っていたのかもしれない。 雨が降る前の匂いに気づくように、誰かの心が沈む前の気配にも、場の温度が変わる前の沈黙にも、自分の中の限界が近づく音にも。 敏感なのではない。弱いのでもない。 ただ縁が深いだけ。 雨の匂いがわかる人は、きっと人生の中でも何度も、もうすぐ何かが変わると感じてきたに違いない。 そしてその直感はいつも少し遅れて現実になる。 だからこそその感度を責めたくない。 気づいてしまうことは、疲れることでもあるけれど、美しいものを誰より早く見つける力でもある。 雨の前の匂い。季節が変わる直前の風。 人が泣く前の沈黙。別れが近づく時の言葉にならない距離。 そういうものに気づける時は世界と少し深いところでつながっている。 ただ受け取りすぎた日は、折れてしまいそうな日にはちゃんと自分にも傘をさしてあげたい 鳳条 暦

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  • 06/12 19:49

    五体未完成

    考えだけがまだここにいる。 ほかのものはどこへ行ったのか、わからない。音もなく、騒ぎもなく、気づいたら遠くなっていた。体がどこにあるのか、感情がいつ出ていったのか、言葉がいつから借り物になったのか。記憶がない。 ただ気づいたら、静かになっていた。 散る、という言葉が近い。爆発ではなく霧散。中心から何かが弾けたわけじゃなくて求心力がいつのまにか消えて、それぞれが自分の重力に従って遠ざかっていった。 最初に遠くなったのは、たぶん体だった。腕がある、足がある、それはわかる。でも、それが私のものだという実感が薄い。鏡を見ても、そこに映っているものと自分のあいだに、うっすらとした膜がある。触れているのに、触れていない。体は律儀にそこにあり続けているのに、私はもうそこに住んでいない気がする。 感情はもう少し後だったと思う。悲しいとか、嬉しいとか、そういう言葉は知っている。でも今それを感じようとすると手が届かない。感情があった場所に行ってみるともぬけの殻で、かわりに静けさだけが残っている。泣けない、というのとも違う。そもそも、泣く理由を感じる部分がいない。 言葉はまだ出てくる。でも自分のものかどうか、怪しい。誰かが使った言葉を私が借りて並べている感覚がある。かつては言葉が内側から湧いてきた。圧力のように、黙っていられなくて外に出てきた。今は違う。言葉を選んで、置いている。それは言葉を使っているというより、言葉に使われている に近い。 残ったのは考えだけだ。 それも答えを探しているわけじゃない。ただ回っている。着地する場所を持たないまま、宙で回り続けている。受け取る体がない。応える感情がない。翻訳する言葉も借り物だ。それでも考えは止まらない。まるで主を失った水車のように。川はもうないのに、回ることだけを覚えている。 そしてその考えを私が見ている。 散っていくものたちを、止めようとしない自分がいる。引き留める気力がないのか、それとも引き留める必要を感じていないのか、それすらわからない。ただ見ている。体が遠くなるのを見ている。感情が出ていくのを見ている。言葉が薄くなるのを見ている。そして考えが宙を回るのを、考えが見ている。 これが奇妙なところだ。散っているのに、見ている何かがある。全部が遠ざかっているはずなのに、その遠ざかりを認識している視点だけは、消えない。それを私と呼んでいいのかどうか、もうわからないけれど。 五体満足 という言葉がある。五つがそろってはじめて人は満ちている という意味だろう。では今の私は何か。五体未完成。欠けているのではなく、まだ途中なのでもなく。 一度かたちになりかけていたものが、静かに解けていく過程の中にいる。 それを嘆く気持ちも、今は遠い。 ただ考えだけが巡っている。答えのないことを知りながら、それでも回るのをやめない。そしてその考えを誰かが見ている。たぶんそれが今の私の全部だ。 鳳条 暦

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  • 06/11 19:00

    観察者は、観察されない

    人間観察を極めると、人嫌いになるのではないか??そういう問いがある。一見もっともらしい。人の裏を見続けた者は、やがて人そのものを嫌悪するようになる という論理だ。 だが少し考えると、それは逆ではないかと思い始める。人嫌いになるのは、観察が極まった時ではなく、観察が途中で止まった時なのではないか。 観察が深まるほど、人の作為が見えてくる。愛想笑いの計算、褒め言葉の裏にある自己像の維持、善意に混入した承認欲求??そういうものが透けて見えてしまうと、まず嫌悪が生まれる。しかしそこで止まらずにさらに見続けると、もう一層が現れる。作為の奥にそれでも何かを懸命に守ろうとしている弱さが見える。虚勢を張るのは怖いからで、愛想笑いするのは繋がりたいからだ。その根っこまで届くと、嫌悪は静かに別のものに変わっていく。憐憫か、あるいは苦い親しみのようなものへ。 観察が途中で止まる理由は何か。疲れるから、というのが単純な答えだ。しかしもっと深いところに、もうひとつの理由がある。見えすぎると、自分も同じだとわかってしまうからだ。 他人の作為が見える人は、たいてい自分の作為にも気づいている。私も愛想笑いをする、私も計算する??そこまで来ると、嫌悪の矛先が他者から自己へと向かい始める。人嫌いの正体が、実は自己嫌悪の外部投影だったと気づく。ゴフマンが印象管理と呼んだ行為は誰もがやっていることで、それを知っている人間が他者の印象管理を見た時に感じる嫌悪は、同族嫌悪に近い。みんな同じ穴のムジナだ という認識。 ここまで来ると問いはまったく別の形で返ってくる。 観察を極めた人間が直面するのは、人嫌いではなく、もっと奇妙な困難だ。人を嫌いになれないということだ。構造が見えてしまうから断罪できない。しかしまっすぐ好きにもなれない。その宙吊りの中にいる。 例えば相手の言葉をまっすぐ受け取れない瞬間がある。言葉が届く前に、分解が始まってしまう。なぜ今これを言ったのか、この文脈でその言葉を選ぶとはどういうことか??そういう処理が、感情より先に動く。結果として素直に喜べない。温かく受け取れない。後から、自分は冷たかったと思う。 しかしそれは冷たさではなく、処理の速度と深度の問題だ。温かく受け取る人は、言葉をそのまま飲み込む。観察者は飲み込む前に成分を見てしまう。そしてこれが決定的なのだが??その冷たさは外側に出ない。相手には届かない。内側で完結する。 観察者は、観察していること自体を観察されない。 見えてしまう。分解してしまう。でもそれを誰にも言えない。言っても伝わらないし、言ったら相手を傷つけるかもしれない。だから私は冷たいという形で自分の中に収める。その非対称性の中に、ずっと一人でいる。 そしてここにこの思索の核がある。まっすぐ受け取れなかった時に感じるのは、冷たさへの自己嫌悪だけではない。受け取れなかったことへの悔しさがある。観察者は、冷たくなりたいわけではない。むしろ温かく受け取れる自分でいたかった、という願いを持っている。能力が感情の邪魔をしている??そういう逆説的な苦しさの中にいる。 人嫌いになるのかという問いは、こうして最後に静かに裏返る。観察を極めた者は、人を嫌いになれなくて困っている。見えすぎるがゆえに簡単には離れられない。人間という生き物への、解消されない関心を抱えたまま、ただ一人で見続けている。 鳳条 暦

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  • 06/10 17:45

    人間機械論

    部品を交換できる存在でありたい 人間機械論を哲学書から語るより、もっと手前に出発点がある。 感情が激しすぎて、身体がついていけない。感情がどこから来るのかわからなくて、自分のものとして馴染まない。 そういう人間にとって、部品を外せる存在でありたいという欲望は逃避ではない。むしろ生存のための設計思想だ。 この感覚はいくつかの方向に枝分かれする。 ひとつは、脱同一性の欲望。固定した私に縛られたくない。自分を組み替えられる、柔軟な存在でいたい。ドゥルーズが器官なき身体と呼んだものに近い感覚??機能や役割に縛られる前の、まだ何にでもなれる状態への憧れ。 彼はそれを欠如ではなく、可能性の最大値として語った。部品が外れた状態は壊れた状態ではなく、まだ組まれていない状態だ。 もうひとつは修繕可能性への安心。壊れても直せる。完全でなくていい。機械なら故障は恥ではない。 ここで大事なのは、機械の優れた点は壊れても直せることではない、ということだ。壊れた部分を特定できること??それが本質だと思う。どこが故障しているかがわかれば、全体が崩壊しなくて済む。感情という部品を一時的に外しておける存在。それは冷たい存在ではなく、自分を壊さないための知恵を持った存在だ。 そして三つ目は、主体の解体。核としての自己を解体し、関係や文脈の中で変容し続けたい??仏教の無我論が指し示す方向と、どこか重なる。 仏教は固定した自己などないと言う。それは虚無ではなく、自己が川のように流れ続けているという見方だ。部品が入れ替わっても川は川であるように、自己は核ではなく流れそのものかもしれない。 自己という核を軽くしたい、という感覚もここから来ている。重い核を持つ機械は、少しの衝撃で全体が揺れる。核が軽ければ、何かが壊れてもそれはただの部品交換で済む。 感情が身体に馴染まないと感じる人間にとって、機械であることは呪いではない??ひとつの自由の形だ。デカルトはそれを恐れた。でも内側から機械論に辿り着いた人間には、その恐れがよくわからない。 デカルトが守りたかったのは霊魂だった。人間を機械と見なすことで、何か大切なものが失われると感じた。でも逆に問いたい。感情が自分のものとして馴染まないなら、その感情は本当に私の霊魂だったのか。 むしろ、部品として扱えるようになったとき、はじめてそれが自分にとって何だったのかが見えるかもしれない。外してみてはじめて、その部品の形がわかる。抱えたままでは、形すら確かめられない。 機械でありたいという欲望は、冷たさへの憧れではない。自分を知るための、もうひとつの触れ方 外せてしまえば、きっといくらでも無理が効く 鳳条 暦

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  • 06/09 20:01

    【お詫び】

    長らくご迷惑をおかけしてすいません。 ? 日記ではどうしても書きづらい内容も含まれているため、復帰後また個々にお話しますね。 ? 心配かけてごめんなさいより、心配してくれてありがとうと 言える暦でいたいと思っていますが、 ? もう本当にすいませんしか出てきません。 ? 8月を待たずに、ペースダウンしながら店には伺います? 鳳条 暦

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  • 06/09 09:15

    豆腐に醤油をかけても醤油にはなれません。

    豆腐は醤油につけても、醤油味の豆腐。 醤油になるわけじゃない。 優しさは本質的にわたしを助けてくれるものじゃないけれど、確かに私に染み渡る これだから人を観察することはやめられないし、人を嫌いにもなれない。どんどん情に熱くなり、それを隠すように天邪鬼になる ?? 豆腐は醤油に浸かっても、醤油にはならない。それでも、確かに染み渡る。 優しさというのは、不思議なものだと思う。 受け取っても、何かが根本から変わるわけじゃない。傷が消えるわけでも、欠けたものが埋まるわけでもない。誰かの言葉がどれだけ温かくても、それがそのまま自分の傷に当てはまるとは限らない。優しさは万能じゃない。知っている。 それでも??沁みる。じわりと、奥のほうまで。 だから困る。 助けになったとは言い切れないのに、何でもなかったとも言えない。受け取った温度が、どこかにずっと残っている。消化しきれないまま、体の内側に溜まっていく。それが重荷なのか、栄養なのか、自分でもよくわからないまま、ただ抱えて歩いている。 人を観察するのをやめられないのは、たぶんそのせいだ。 誰かの何気ない言葉、視線の動き、黙っているときの息の仕方、笑うときに少しだけ遅れる目の動き。そういうものを、気づけば拾い集めている。意図してやっているわけじゃない。ただ、目に入ってしまう。耳に残ってしまう。 そうして観察しているうちに、いつのまにか情が湧いている。 好きになるつもりなんてなかったのにもう遅い。その人の形が自分の中に刻まれている。完全に理解したわけじゃない。 わからないところが多いほど、もっと知りたくなる。人間というのは、近づくほど謎が増える生き物だ。それでもやめられない。 そうなると今度は、隠したくなる。 熱くなればなるほど、天邪鬼になる。近づきたいのに素直になれない。感謝しているのに、うまく言葉にできない。感じているのに、感じていないふりをする。冷静を装うほど、内側では何かがうずいている。これは臆病なのか、それとも照れなのか。たぶん両方で、どちらでもある。 嫌いになれたら、楽だろうと思うことはある。 傷ついたとき、裏切られたとき、すれ違ったとき。あのとき憎めたら、もう少し軽くなれたかもしれない。でもできなかった。 観察してしまうから。その人にもきっと、理由があると知ってしまうから。事情があって、痛みがあって、不器用なだけだと、見えてしまうから。 だから人を嫌いになれない。ずっと。 これは優しさではないと思っている。 優しさというより、性分だ。そうできないというより、そうなってしまう、という感覚に近い。選んでいるわけじゃなく、ただそういう風にできている。豆腐が醤油を拒まないのと同じように、わたしは人の温度を、無意識に受け取ってしまう。 染まるわけじゃない、でも染みる。 その違いが、わたしにとってはすべてだ。 醤油になってしまったら、もうわたしじゃない。でも、何も受け取らない豆腐なんて、ただの白い塊だ。 沁みることで、はじめてわたしは豆腐になる。沁みることで、はじめてわたしは、わたしになる。 人と関わるたびに、少しずつ色がついていく。 それが時に重くても、滲んで滲んで、それでもわたしの形は変わらない。 これが、わたしの性分らしい。 格言だよもう。これ私の人生だよ なんかもうどっかに貼り付けたいよ。 鳳条 暦

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  • 06/08 17:15

    強がりさん

    初めまして でしたか?会話のキャッチボールから始めますか? もう貴方のことはたくさん知ってるつもりだったのに? 私もまだまだですね。これからは、自分のことも磨きますから。 これからもどうぞよろしくね?? ----- 歳を重ねるほど、かわし方も諦め方も上手くなる。でもこの老人は正面から引かない。 歳を取っても譲らないものが残っている人でありたい 敬意と殺意のあいだで ??サンチアゴの倫理について 歳を重ねるほど、かわし方が上手くなる。 これはただの観察だ。長く生きるということは、どこで力を使い、どこで退くかを学ぶことでもある。譲ることを覚え、流されることを覚え、やがてその技術に成熟という名前がつく。角が丸くなるのは、摩耗の証であると同時に、生存の証でもある。 だからこそ、ヘミングウェイの老人サンチアゴは異様に映る。 何日も海に出て、何日も引き摺られて、それでも綱を手放さない。そして大魚に語りかける??「いいやつだな。たいしたもんだ。きょうという日が暮れるまでには死んでもらうが」。 敬意と殺意が、同じ一文の中に並んでいる。 普通、この二つは矛盾する。相手を尊重するなら手を引く、あるいは相手を倒すなら軽んじる??どちらかに振り切るのが、合理的な人間のやり方だ。しかしサンチアゴは両方を手放さない。魚の偉大さを認めながら、それでも殺すと決めている。 これは頑固さではない。もっと静かな何かだ。 相手の強さを正面から受け取る、という行為。値踏みしない、という態度。魚が強ければ強いほど、老人はそれをそのまま見る。縮小しない、矮小化しない、たいしたことないと言って楽になろうとしない。 そしてだからこそ、全力を出す理由が生まれる。 手を抜くことはある意味で相手への侮辱だ。本気で向き合わないということは、相手をそれだけの値打ちのないものとして扱うことでもある。サンチアゴの殺意は、敬意の裏面として存在している。 老いの知恵が省エネの方向に働くとすれば、サンチアゴの老いは逆だ。長く生きてきた分だけ、何が本物かを知っている。だから本物を前にしたとき、引かない。 引けない、ではなく、引かない。そこには意志がある。 譲らないものが残っている人 信念や主義のことではない。戦う価値のあるものを前にしたとき、なお正面に立てるかどうか、ということだ。歳を取るにつれて、その正面に立つための筋肉は衰えやすい。使わなければ、静かに失われていく。 サンチアゴは孤独な老人で、最後に魚を持ち帰ることもできなかった。それでも彼は何かを失わなかった。 正面から引かなかった、という事実だけが海から陸へと戻ってくる。 私はまだ、かわし方を覚えている途中にいる。 うまく退く日もあるし、流されたほうが楽だと知っている日もある。それが悪いこととは思わない。でも同時に怖いとも思っている。気づかないうちに、正面に立つための何かを少しずつ手放してしまうことが。 だからサンチアゴの姿が刺さる。結果ではなく姿勢として。魚を仕留めたかどうかではなく最後まで綱を握っていたかどうか、という話として。 譲らないものが残っている人でありたい、と思う。それは強さの話ではなくて、何かを前にしたとき、まだそこに立っていられるか、という問いへの、 終わらない答えとして。 鳳条 暦

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  • 06/07 17:30

    言の葉のまほう

    初めてとは思えないくらい、私のことを見透かす貴方。 顔や目を合わせるのが恥ずかしくて、ついつい0の距離。 この短くも長い旅路を貴方となら楽しく歩けそうだと感じました? 6月もひょんなことで時間ができてくれないかと、今日はお月様に祈りましょう? ----- ちいかわ様が天下のマクドナルドとコラボレーション?? こちゃこちゃしたものはどうしても掃除がしにくくなるとわかっていても? 部屋ではまだまだ増殖中です? ----- 第6部-魔法と倫理- できることをしていいとは限らない 魔法を深く考えると必ず倫理に辿り着く。 なぜなら魔法とは現実に干渉する力だから。 力を持ったとき人間は必ず問われる。 それを使っていいのか。 自分は本当に正しいのか。 魔法の怖さは、火が出ることや空を飛べることではない。一番怖いのは力を持った人間が自分は正しいと思い込むことだと思う。 人間は自分の善意を疑うのが苦手だ。 一見、優しい言葉に見えるが危うさもある。 「救いたい」は相手を弱者として見ていないか。 「守りたい」は相手の自由を奪っていないか。 「変えてあげたい」は相手を自分の理想に合わせたいだけではないか。 「わかってあげたい」は相手の不可侵領域に入ろうとしていないか。 「本当の姿を見つけたい」は相手が隠しているものを暴こうとしていないか。 魔法とは境界を越える力。 魔法使いには境界を守る品性が必要になる。 ? 未熟な魔法使いと成熟した魔法使い 未熟な魔法使いは自分の力を証明したがる。 成熟した魔法使いは力を使わずに済むなら使わない。 ここに魔法使いの本質があると思う。 魔法とは、世界を動かす力。 でも本当に成熟した魔法使いは世界を無理に動かさない。 ここをわからない人間が魔法を持つと、魔法は暴力になる。 たとえ善意でも、相手の境界を越えすぎれば暴力になる。 たとえ愛でも、相手の自由を奪えば支配になる。 たとえ救済でも、相手の痛みを奪いすぎれば、その人の人生そのものを奪ってしまう。 だから魔法に必要なのは、力だけではない。 変えられるものを変える勇気と、変えてはいけないものに触れない覚悟。 これが魔法の倫理だと思う。 なんだかちょっと言葉と似ているように感じますね 鳳条 暦

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  • 06/07 09:15

    6月

    自分がイランの立場であれば、核能力の保持は絶対に譲れない。 なぜなら現代の国際政治において、核能力は単なる軍事力ではなく、国家の生存保険に近いからだ。ウクライナ戦争を見ても、ベネズエラへの圧力を見ても、核を持たない国の運命は大国の判断に左右されるという現実が積み重なっている。 その意味でイランにとって濃縮ウランを国外へ搬出することは、単なる技術的譲歩ではない。文字通り城の堀を自ら埋める行為に近い。一度それを手放してしまえば、その後の安全保障は相手の善意に依存することになる。イランからすればそれはあまりにも危うい。 ではホルムズ海峡はどうか。 ホルムズ海峡の封鎖、あるいはその管理権をめぐる駆け引きはイランにとって極めて大きな交渉材料になる。ホルムズは世界のエネルギー市場に直結する要衝であり、そこが不安定になれば原油価格や物価に大きな影響が出る。実際現在の米イラン交渉でも、ホルムズ海峡の再開や航行の自由は重要な争点になっている。? つまりイランがホルムズの状況を左右できる限り、世界経済の一部はイランの判断次第になる。これは核能力の維持や制裁解除を米国に認めさせるための最も強力なレバレッジだ。 だから自分がイランの立場であれば、核能力もホルムズでの影響力も、簡単には手放さない。可能であればホルムズに対する実質的な管理権と核能力の維持を同時に狙う。 もしホルムズで譲歩し、海峡管理を諦めるのであれば、その代わりに最低でも核能力の保持、安全保障の保証、制裁解除の明確な約束が必要になる。 問題は米国がそれを受け入れられるかどうかだ。 米国が最終的に受け入れる可能性はある。だがそれは米国から見れば、イランの要求を事実上認めることになる。つまり米国にとっては外交的な敗北に近い。 だからこそ米国がその条件を飲むには、国内の議会や関係者を説得できるだけの前段階が必要になる。つまりこの条件を飲まなければ世界経済もエネルギー市場もさらに混乱するという現実の出来事が必要になる。 イランにとっての交渉とは譲歩ではなく、生存条件の再定義なのだと思う。 ? イランは非合理な悪役ではないのでは。 西側目線ではなぜ核を手放さないのか、なぜホルムズを脅しに使うのかと見えるけれど、イラン側からすればこれはかなり合理的。 特にIAEA(国際原子力機関)は、イランの濃縮活動や在庫の検証について十分な情報を得られていないと報告しており、英仏独もイランの60%濃縮ウラン保有を強く問題視している。つまり核問題はすでに象徴ではなく、実質的な交渉カードになっている。? 核能力の保持と核兵器の保有は分けた方がいい。 イランが本当に欲しいのはすぐに核兵器を使うことではなく、たぶんいつでも作れるかもしれないと思わせる曖昧な能力。これがあるだけで相手は攻撃や体制転換を簡単には選べなくなる。 もう一つはホルムズ封鎖は強力だけど、長く続けるほどイラン自身にも返り血が来るということ。原油市場を揺らせる一方で、米国や湾岸諸国、欧州、中国まで敵に回すリスクがある。だからイランにとってホルムズは本当に閉じ続けるためのカードというより、閉じる可能性をちらつかせるためのカードに近いと思う。 イランにとって核は最後の保険であり、ホルムズは交渉の刃である。 保険を手放せば生存を他国に委ねることになり、刃を捨てれば交渉力を失う。 だからイランは、どちらも簡単には放棄できない。 正義と生存 鳳条 暦

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  • 06/06 18:01

    上手くいかないことばっかりでもそれも私なの

    音楽を聴いて泣いた夜はありますか? 記憶と音楽 プルーストのマドレーヌは有名だけれど、音楽はそれよりもっと暴力的に記憶を引き出す。 なぜか。匂いや味は場面を蘇らせるけれど、音楽は時間そのものの形を持っているから。4分間の曲は、4分間かけて展開する。聴くという行為が、過去のその時間を再体験させてしまう。 泣くのはあの頃が懐かしいという感傷ではなく、もっと深いところにある??かつて存在した自分が今の自分の中で生きていることへの驚きに近い。 ベルクソンの言葉を借りると、記憶は過去のコピーではなく、現在に侵入してくる持続だ。音楽はその侵入の扉を開ける。 孤独と共鳴 深夜ひとりで聴くとき、より泣けるのか。 日中、私たちは絶えず 見られている自分を管理している。感情はある程度、社会的な文脈の中でフィルタリングされる。 でも深夜の孤独の中では、その管理が解除される。 面白いのはここで??孤独の中で音楽に泣くとき、それは孤立しているのではなく、作った人間、歌った人間、その曲を同じように深夜に聴いて泣いた無数の他者と、静かに接続している。 ブーバーのI-Thou関係で言えば、音楽との出会いはまさにそれだ。音楽を使うのではなく、音楽に出会う瞬間。自分が少し溶ける感覚。 孤独の中の共鳴は、群衆の中の共感よりずっと深いところまで届く。 カタルシスとして アリストテレスはカタルシスを浄化と訳されることが多いけれど、より正確には感情の適切な排出による均衡の回復に近い。 音楽で泣いた後、なぜ少し軽くなるのか。 言語化できない感情というものがある。悲しいとも、寂しいとも、怒りとも名付けられない、でも確かにそこにある何か。それは言葉では出口を見つけられない。 音楽はその名前のない感情に形を与えずに、ただ動かす。言語化を迂回して、直接に排出させる。 泣いた後の感覚は何かが通過したと感じ 鳳条 暦

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  • 06/06 09:30

    信じたくないし見たくないの

    相変わらず、沢山気を遣ってくださる貴方 きっと仕事では大活躍なのでしょうが、どうか会えた時はゆっくりして欲しいのです?? まだまだわからないことがあるから、どうも私はそれを解き明かしたい性分のようです。 楽しみが増えてしまいました? ----- めろめろメローン?? メロンってクリームにこんなにも合うのですね? ----- 大阪で仕事をする日には真っ昼間にカフェに行けてしまうので、 吸い込まれるようにカフェで甘いものをいただきます? しかし聞こえてくるのは、決まって悲しいことばかり。 何か理由はあるのでしょうか? ??主婦の井戸端会議には旦那の悪口が出てくる 最も近い他者 街角の喫茶店、公園のベンチ、スーパーの駐車場。女たちが集まる場所には、決まって夫の話が流れてくる。家事をしない、話を聞かない、気が利かない??内容はいつも似ている。笑い声が混じり、共感の相槌が重なり、その場は不思議と明るい。悪口なのにどこか祝祭めいている。 なぜ夫なのか。なぜ最も近い人間が、最も語られる人間になるのか。 問いを立てるとき、私はまず安全性という言葉を思った。遠い他者への不満は危険を伴う。関係が壊れるかもしれない、伝わってしまうかもしれない。しかし夫は逃げない??という確信がどこかに宿っている。契約があり、生活がある。その重力が、彼を消費しても壊れない対象にする。 だがそれだけでは何かが足りない。 親密さにはもともと暴力性が潜んでいる。  ショーペンハウアーはヤマアラシの寓話を残した。寒さに凍えた獣たちが温もりを求めて近づく。しかし近づきすぎると、互いの針が刺さる。ちょうどいい距離を、彼らは何度も探し直さなければならない。 結婚とは、その針の距離を固定しようとする試みかもしれない。愛情という名のもとに、本来流動的であるべき距離を制度で縫い止める。だから傷つく。制度は距離を固定するが、感情は毎日変化する。そのずれが、言葉になりきれない不満として蓄積し、井戸端会議という排気口から漏れ出す。 なぜ人は結合を求めるのか。 孤独が怖いから、と答えるのは簡単だ。しかしそれは問いの表面をなぞるだけにすぎない。もう少し深く降りると、こんな問いが現れる??人は孤独を恐れているのではなく、自分が存在することを誰かに証明してほしいのではないか、と。 承認は遠い他者からは得にくい。賞賛は一時的で、関係は薄い。しかし最も近い他者は、日常という文脈の中で繰り返し自分を目撃してくれる存在だ。怒った顔も、情けない顔も、眠っている顔も知っている誰か。その視線の中にいることで、人は自分がここにいるという感覚を得る。 愛情と依存の境界が、当人にも見えないのはそのためだと思う。求めているのが愛なのか存在証明なのか、区別する言葉を私たちは持っていない。だから結婚という制度に乗り、その曖昧さごと一緒に生きようとする。 ここで一つの仮説を立ててみたい。 悪口は関係の腐敗ではなく、関係の証明ではないか。 無関心な人間の悪口は言わない。興味のない相手をわざわざ言葉にする必要はない。言葉が誰かに向かうとき、そこにはまだ引力がある。憎しみでさえ、無関心より近い場所にある感情だ。 井戸端会議で夫を語る女たちは、夫を切り捨てているのではない。彼女たちはむしろ、夫との関係を言語化しようとしている。うまく届かなかった言葉を、他者という鏡に映すことで、自分の感情の形を確かめようとしている。悪口という形式しか持てないとしても、それは対話への不完全な試みだ。 矛盾は解消されない。 針は刺さり続け、距離は揺れ続け、言葉は届いたり届かなかったりする。結婚という制度は、その矛盾を解決するためにあるのではなく、矛盾を共に抱えるための器として存在しているのかもしれない。 それでも人は誰かの隣に座ろうとする。傷つくと知りながら、孤独よりも針の痛みを選ぶ。その選択に、論理的な根拠はない。あるのはただ、寒さに耐えられないという、どうしようもなく人間的な事実だけだ。 最も近い他者を持つことは、最も深く傷つく可能性を引き受けることだ。それを知りながら、それでも??と人は一歩踏み出す。 その それでも の中に、 愛と呼ぶしかない何かが静かに宿っている。 貴方の人生に幸あれ 鳳条 暦

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  • 06/05 18:45

    ずっと暇で1日満喫していました

    引き寄せられたかのように貴方に出会いました。 どこかでもう出会っていたのでしょうか。 緊張で奪われた時間はまた今度取り返しに来てくれますか? ----- 焼き菓子美味しかったな///また食べられるかな? ----- 善意の裏側を考えすぎたのだ。 人の優しさを、素直に受け取れない瞬間がある。 嬉しいはずなのに少し怖くなる。ありがたいはずなのにどこか身構える。 この人は本当に優しいのだろうか。 私は何かを返さなければいけないのだろうか。 この優しさは、いつか別の形で戻ってくるのだろうか。 そんなことを考えてしまう自分を、冷たい人間だと思っていた。 でも私は優しさを信じたくないのではなく、 信じたあとに傷つくのが怖かったのだ。 信じたい自分がいる。誰かの言葉を、そのまま温かいものとして受け取りたい自分がいる。 差し出された手を、疑わずに握り返したい自分がいる。 でもそのすぐ隣に信じたあとで傷つきたくない自分がいる。 その人の優しさが、いつか要求に変わったらどうしよう。心配が支配に変わったらどうしよう。好意が見返りの請求書になったらどうしよう。 そう考えているうちに、私はいつも優しさそのものではなく、優しさの奥にあるかもしれない影ばかりを見つめていた。 本当は、ただありがとうと言えばよかったのかもしれない。 けれど、私にとって優しさを受け取ることは、 少しだけ無防備になることだと思っていた。 甘えるとは、いつか責められる準備をすることだと思っていた。 信じたい自分は、まだ人を諦めていない。 傷つきたくない自分は、まだ私を守ろうとしている。 ただ、これからは少しだけ善意の裏側を探す前に、その表側にある温度にも触れてみたい。 それくらいの柔らかさで、人の優しさと関われたらいい。 鳳条 暦

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  • 06/04 17:15

    今夜の夢は苦い夢

    あっという間に10回戦。 雨も降っておらず、むしろうだるような暑さに私はすでに夏バテ気味。 5月とは思えないほど、頑張る冷房。冷えた身体を抱きしめてくれてありがとう?? 極めて仲良くなった時、私たちは一体どこへ向かうのでしょうか? ----- とっても懐かしいおやつで遊びました? 近所に駄菓子屋さんがあることを伺ってついつい購入。 小さい時は100円を握りしめて向かっていたのですが、今回は贅沢に500円? 思いのほかたくさんのお菓子が買えてしまいました? ----- 誰かに期待するとき、私たちは相手を見ていない。 自分がこうあってほしいと願う像を、ただ相手の顔に重ねているだけだ。 なぜそうするのか。 たぶん、他者というのは本質的にわからないものだから。 どれだけ言葉を交わしても、どれだけ時間を重ねても?? 別の人生を生きてきた誰かの内側に、完全に触れることはできない。 その空白を私たちは無意識に自分の色で埋めようとする。 期待とはその穴埋めの作業 生きてきた時間が違う。積み重ねてきた傷も、喜びも、全部違う。 それなのに少し相手を知った気になった瞬間に??その人の形を自分の物語で塗り始める。 他者は、鏡じゃない。 でも私たちはどこかで、鏡であってほしいと願っている。 自分の期待に応えてくれる存在を理解し合えた相手と呼び、そうでない存在を裏切った相手と呼ぶ。 その非対称さに気づかないまま、期待を裏切られたと思うとき。 本当に裏切ったのは誰だろう。 相手はただ、自分のまま存在していただけかもしれない。 傷ついているのは、そうであってほしかった自分が静かに否定された瞬間だから。   他者を責める方が、ずっと楽だ。 でも痛みの奥にあるのは、怒りじゃなくて?? 自分自身への小さな哀しみだと思う。 他者を知ることと、他者を感じることは、きっと違う。 知ろうとするとき、私たちはどうしても自分のフィルターを通す。 でも期待を手放したその先に、はじめて相手がそのままの形で目に入ってくる瞬間があるような気がする。 鳳条 暦

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  • 06/04 12:29

    【謝罪】

    何度もご迷惑をおかけして本当にごめんなさい。 こちらでは詳しい内容について記載ができませんが、心も体も元気です? 鳳条 暦

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  • 06/04 09:15

    揺れるカーテン

    熱心な貴方に心動かされました。 私の身体を美しいと言い撫でる貴方にドキドキ。 次に会う時はもっと成長した姿を見せたい。 継続は力なり。人生続けたもん勝ち? 迷ったときは貴方の灯りになれますように。 ----- 噂の、宇宙に行ったサバ缶に興味津々???? さばの缶づめ、宇宙へ行くという本もあるらしいんです?  今は積み書が多いため一旦保留です? ----- ??朝すごく早い時間に世界に目覚めさせられるのは何故? 目覚めさせられるということ 夜明け前、まだ世界が名前を持つ前の時間に、何かが来る。 それを目覚めと呼ぶのは少し違う気がする。目覚めは能動的な響きを持ちすぎている。かといって起こされたでもない。誰かの意図がそこにあるわけじゃない。 もっと正確に言えば??世界が先に動いていて、意識がそれに追いつく、あの感覚のこと? 身体から始めよう。 夜明けの一時間前、脳は静かにコルチゾールを上昇させはじめる。これは目覚めの結果ではなく準備だ。つまり身体は、意識よりも先に朝を知っている。光が目に届く前に、血液の中にすでに夜明けがある。 ハイデガーが言うように、私たちは世界に投げ出されている存在だとすれば、この生理的な先行性はとても示唆的だ。私が世界を覚知する以前に、世界はすでに動いている。 では、あの受動の感覚はどこから来るのか。 目覚めさせられるという日本語の構造に、すでに答えが滲んでいる。 使役受身??させられる??は、能動でも受動でもない第三の様態だ。強いられているが、拒んでもいない。引っ張られているが、引っ張っているものの顔は見えない。 禅の道場では夜中の三時か四時、寅の刻に暁天座禅が始まるらしい。 あの時間が選ばれるのは偶然ではない。闇と光の境界が最も薄くなる刻、自他の形がまだ溶けている時間に、修行者は在ることと向き合う。眠りから覚めきってもいない身体で坐る ??あの中途半端さこそが、修行の核心だという見方もある。完全に覚醒した意識では、あまりにも「自分」が強く出てしまうのだろう。 早暁には、もう一つの性質がある。 静寂が質を持っているということだ。昼間の静寂は音がないだけだが、夜明け前の静寂は何か満ちている。世界中の感覚過敏な人間がこの時間をどこか神聖なものとして記憶しているのは、おそらく情報密度の問題だ。 文明のノイズが最も低い。だから世界の地が露わになる??普段は人や出来事に隠されている、世界そのものの手触りが。 HSP的な神経系にとって、この時間は特別な両義性を持つ。昼間は刺激の海を泳ぎ続けるが、早暁だけは海が凪いでいる。だから目覚めさせられるのかもしれない。過敏な知覚が、世界の最小の変化??光の角度、気温の数度の変化、鳥の声の始まり??を感知して、意識を引き上げる。繊細な神経系は、粗い刺激より微細な信号に先に反応する。 ショーペンハウアーならこう言うかもしれない。 意志は眠らない。身体が休んでいる間も、生きようとする盲目的な力は活動し続ける。夜明けに目覚めさせられるのは、意志がそろそろ世界に戻れと信号を送るからだ。それは欲望ではなく、もっと根源的な何か?? 世界が先に動く。身体がそれを感知する。意識がやっと追いつく。名前のない時間は、そうやって終わる。 鳳条 暦

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  • 06/03 17:00

    日曜日は休みの日です

    文体は書き手の顔だ。精神の相貌が刻まれている。 他人の文体をまねるとは、仮面をつけることだ。仮面はどんなに美しくても、生気がないためにまもなく悪趣味で耐えがたいものになる。醜くても生きた顔の方がいい 生きた顔としての自分の文体。 ----- 今日も目が入ってしまった。 誰かが言葉を選ぶ一瞬の間、視線が少しだけ逸れる方向、笑いながら手を動かすときの微妙なリズム。意味を読もうとしているわけじゃない。ただ、入ってくる。 ヴェーバーは言う。人間の行為には主観的意味がある と。外から見える動きだけでは行為は理解できない。その人が何を意図し、誰を意識し、何に向かっているのかを見なければならない と。 わかってる。だからこそ疲れる。 ミードの言葉を借りれば、私たちは他者の役割を内面化することで自己を形成する。他者の視点を自分のなかで再演する。でも私の場合、その再演が止まらない。相手が舞台を降りても、私のなかでまだ上演が続いている。 ゴフマンは人間関係を演劇に喩えた。誰もが何かを演じていて、舞台裏と表舞台がある。私はたぶん、舞台裏が気になりすぎる。演じていない瞬間を探してしまう。でもそんな瞬間は、どこにもないのかもしれない。 ガーフィンケルが言うように、人は無数の「見えないルール」の上で動いている。私がその仕草に目を入れるのは、そのルールの形を感知しようとしているのかもしれない。理解したいからじゃなく、ただ感知してしまう、という意味で。 合理的選択理論は、人は効用を最大化するように行動すると言う。でも私が見てしまうのは、合理では説明できない余白の部分だ。計算の外側にある、その人の体温みたいなもの。 疲れるとわかっていても、目が入る。それは他者の存在をそのまま流せないということだ。意味があると思ってしまう。全部に。 鳳条 暦

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  • 06/03 09:30

    珊瑚

    『珊瑚』 人間がなぜ危険を承知で美しいものに惹かれるのか。 ? 新田次郎といえば、まず山岳小説の作家という印象が強い。 人間が山に挑み、自然の厳しさの前で試され、時に敗れ、それでもなお何かに引き寄せられていく??そのような物語を描く作家のイメージでした。 珊瑚の舞台は山ではなく海。 山ではなく海であっても、新田次郎が描こうとしているものは変わらないのだと思う。 それは人間が自然の中でどこまで生きられるのかという問いであり、同時に人間はなぜ危険な場所へ向かってしまうのかという問いである。 この物語の核心は金になるから珊瑚を採るという単純なものではなく、 登場人物たちは珊瑚そのものの美しさ、海の底に眠る未知の輝き、そしてそれを自分の手で引き上げることにどこか抗えない魅力を感じている。 そこには山に登る人間がなぜ山に登るのか と問われる感覚に近いものがある。 合理的に考えれば危険で割に合わない。命を落とす可能性すらあるけれど、それでも向かってしまう。 珊瑚は彼らにとって単なる商品ではなく、人生を賭けるに値する美の象徴だったのではないか。 珊瑚を読んで感じるのは、珊瑚という存在の皮肉である。 珊瑚は美しい。装飾品となり、芸術品となり、人を魅了する。けれどその美しさの裏には危険な海に出た人間たちの命がある。 私たちは美しいものを見るとき、その裏側にある労苦や犠牲を忘れてしまうことがある。 しかし珊瑚はその美の裏側にある人間の生と死を見せてくる。 美しいものはただ美しいだけではない。 そこには時に人間の執着や犠牲が沈んでいる。 だからこの作品の珊瑚は単なる宝石ではなく、人間の欲望と自然の残酷さが結晶したもののように感じられる。 山岳小説の新田次郎が海を書いた、という点もとても面白い。 山と海はまったく違うように見えるけれど、どちらも人間を試す場所である。 山では天候、雪、岩壁、寒さが人間を追い詰める。海では波、風、潮、嵐が人間を飲み込む。 どちらにも共通しているのは人間が自分の力を過信した瞬間に、自然がその小ささを思い知らせるということだ。 それでも人間は向かっていく。 山へ。海へ。 危険の向こう側にしか見えないものがあると信じて。 この物語の魅力は難解な心理描写ではなく、まっすぐな人間の行動によって感情が伝わってくるところにもある。 現代小説のように内面を細かく分析するのではなく、男たちは海へ出る。惚れる。争う。夢を見る。死に近づく。 だから読みやすいのに軽くはない。 余計な説明が少ないからこそ読後にずしりと残る。 珊瑚は海洋ロマンであり、青春小説であり、歴史小説であり、災害文学でもある。 そして人間が何かに魅入られて生きることの物語。 珊瑚に魅入られる。海に魅入られる。 愛に魅入られる。自然に敗れると知っていても、人間は何かに魅入られずには生きられない。 しかし人間そのものが1番切なく、1番美しいと そう思わされる時もある。 素敵な本を教えてくださりありがとうございます??? 鳳条 暦

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  • 06/02 17:03

    書花創

    こけるまで、止まれない。 もっと早く休めばよかった。 そう思う頃には、たいていもう遅い。 思えば、あの時もそうだった。 虫歯菌が歯の奥深くまで入り込み、神経に届くまで休まなかった。 同じ足を何度も痛めて、それでも走り続けて、疲労骨折になるまで止まらなかった。 微熱だから大丈夫だと動き続けて、血液検査の場で倒れて、ようやく身体に止められた。 私はいつも限界を少し越えてからしか気づけない。 今休んだら、昨日の自分を超えられないかもしれない。 どうせいつか休める。 ここで止まったら、全部が崩れてしまう気がする。 そんな気持ちがずっと身体の内側に残っている。 昔ほどストイックに生きているつもりはない。 でも奥のほうにはまだ、べっとりとした何かがこびりついている。 まだいける、これくらい大丈夫、あと少しだけ そうやって自分を押し出してきた時間が、身体のどこかに積もっていたのかもしれない。 そして今、身体は静かに反乱を起こしている。 言葉にならない疲れが、皮膚の下から浮かび上がるように広がっていく。 見えないところで我慢していたものが、もう隠せないところまで来てしまったみたいに。 これは痛みというより、拒絶に近い。 私の身体が、私自身に向かって言っている。 身体は壊れる前にちゃんと声を出していたのかもしれない。 でも私はその声を努力不足だと思ってしまった 止まることを、負けることみたいに扱ってしまった。 本当は身体はずっと味方だったのに。 限界まで頑張ることが強さだと思っていた。 昨日の自分を超えることが、生きている証明だと思っていた。 でも、昨日の自分を超えるために、今日の自分を壊していたら、私はどこへ向かっているのだろう。 休むことは逃げることではないのかもしれない。これ以上、私を私から奪わせないための、いちばん静かな抵抗なのかもしれない。 今、身体に起きていることを、私はまだうまく説明できない。 怖いし、不安だし、恥ずかしさもある。 でも少なくとも、これはただの不調ではなくて、私の身体が最後に引いた境界線のように感じている。 ずっと私が止まれなかったから、身体が代わりに止まってくれた。 だから今度こそ聞かなきゃいけない。 丸々一週間、本当にご迷惑をおかけしてすいません。 散歩なんかせず、食って寝ろ とナース様にもドクター様にも背中を押されました。 頑張りますと言いたいところですが、頑張りません。 鳳条 暦

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  • 06/02 09:15

    私と海

    明るい瞳の奥に闇を引きずる貴方様。 忘れてはいけないが、自分を見失ってはいけない。 趣味の登山、他の好きなことで空白を全て埋める必要はありません。埋まらないから覚えておけることもあると思います? ----- スタバでチョコテリーヌ食べちゃいました? 時間がないのにケーキを頼んで、最後は口に詰め込みました? 今度はもう少しだけゆっくり食べたい?味の感想より急いだ事実… 人生、山ありチョコあり… -----  海に自己否定は存在しない。 クラゲは脳も心臓もないのに、月の引力で漂い続ける。 ウミガメは30年後も、生まれた浜の磁場を忘れない。 イルカは眠りながら泳ぐ。脳の半分だけ休ませて、また跳ぶ。 マッコウクジラは、深海2,000mで傷つく。 だから水面の光を誰より知っている。 『足りない』という概念は、人間が後から付け加えた。 本当は貴方も生きてるだけで完成してる。 あなたの『足りない』は、あなたの『神秘』だ。 ?  特に美しいのは、生き物たちは自分に欠けているものを嘆いていないこと。 クラゲは脳がないことを恥じていない。 心臓がないことを不完全だと思っていない。 ただ海の流れと月の引力に身を預けている。 ウミガメは誰かに教えられたわけでもないのに、自分の帰る場所を身体の奥で覚えている。 それは知識というより、存在そのものに刻まれた記憶に近い。 ここにあるのは欠けているから劣っているのではなく、欠けているように見える部分にその生命のかたちが宿っているという思想。 人間だけが自分を外側の基準で測ってしまう。 もっと賢くなければ。もっと綺麗でなければ。 もっと強くなければ。もっと成功していなければ。もっと愛される価値のある人間にならなければ。 でも海の生き物たちはそんなふうに生きていない。 誰も別の生き物になろうとしていない。 あなたが欠点だと思っているものは、まだ読み解かれていない才能かもしれないということ。 足りないは入口なのかもしれない。 海に自己否定がないのは海の生き物たちが完璧だからではなく、それぞれが自分の不完全さをそのまま生存の形に変えているから。 だから人間もきっと欠けているところを消すために生きているのではなく、 欠けていると思っていた場所から自分だけの神秘を見つけるために生きている おのれを知らない者のみ、自分を客観的に見ることができる 鳳条 暦

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福原ガイド