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06/03 17:00
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文体は書き手の顔だ。精神の相貌が刻まれている。
他人の文体をまねるとは、仮面をつけることだ。仮面はどんなに美しくても、生気がないためにまもなく悪趣味で耐えがたいものになる。醜くても生きた顔の方がいい
生きた顔としての自分の文体。
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今日も目が入ってしまった。
誰かが言葉を選ぶ一瞬の間、視線が少しだけ逸れる方向、笑いながら手を動かすときの微妙なリズム。意味を読もうとしているわけじゃない。ただ、入ってくる。
ヴェーバーは言う。人間の行為には主観的意味がある と。外から見える動きだけでは行為は理解できない。その人が何を意図し、誰を意識し、何に向かっているのかを見なければならない と。
わかってる。だからこそ疲れる。
ミードの言葉を借りれば、私たちは他者の役割を内面化することで自己を形成する。他者の視点を自分のなかで再演する。でも私の場合、その再演が止まらない。相手が舞台を降りても、私のなかでまだ上演が続いている。
ゴフマンは人間関係を演劇に喩えた。誰もが何かを演じていて、舞台裏と表舞台がある。私はたぶん、舞台裏が気になりすぎる。演じていない瞬間を探してしまう。でもそんな瞬間は、どこにもないのかもしれない。
ガーフィンケルが言うように、人は無数の「見えないルール」の上で動いている。私がその仕草に目を入れるのは、そのルールの形を感知しようとしているのかもしれない。理解したいからじゃなく、ただ感知してしまう、という意味で。
合理的選択理論は、人は効用を最大化するように行動すると言う。でも私が見てしまうのは、合理では説明できない余白の部分だ。計算の外側にある、その人の体温みたいなもの。
疲れるとわかっていても、目が入る。それは他者の存在をそのまま流せないということだ。意味があると思ってしまう。全部に。
鳳条 暦
<< 2026年6月

































