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06/06 18:01
音楽を聴いて泣いた夜はありますか? 記憶と音楽 プルーストのマドレーヌは有名だけれど、音楽はそれよりもっと暴力的に記憶を引き出す。 なぜか。匂いや味は場面を蘇らせるけれど、音楽は時間そのものの形を持っているから。4分間の曲は、4分間かけて展開する。聴くという行為が、過去のその時間を再体験させてしまう。 泣くのはあの頃が懐かしいという感傷ではなく、もっと深いところにある??かつて存在した自分が今の自分の中で生きていることへの驚きに近い。 ベルクソンの言葉を借りると、記憶は過去のコピーではなく、現在に侵入してくる持続だ。音楽はその侵入の扉を開ける。 孤独と共鳴 深夜ひとりで聴くとき、より泣けるのか。 日中、私たちは絶えず 見られている自分を管理している。感情はある程度、社会的な文脈の中でフィルタリングされる。 でも深夜の孤独の中では、その管理が解除される。 面白いのはここで??孤独の中で音楽に泣くとき、それは孤立しているのではなく、作った人間、歌った人間、その曲を同じように深夜に聴いて泣いた無数の他者と、静かに接続している。 ブーバーのI-Thou関係で言えば、音楽との出会いはまさにそれだ。音楽を使うのではなく、音楽に出会う瞬間。自分が少し溶ける感覚。 孤独の中の共鳴は、群衆の中の共感よりずっと深いところまで届く。 カタルシスとして アリストテレスはカタルシスを浄化と訳されることが多いけれど、より正確には感情の適切な排出による均衡の回復に近い。 音楽で泣いた後、なぜ少し軽くなるのか。 言語化できない感情というものがある。悲しいとも、寂しいとも、怒りとも名付けられない、でも確かにそこにある何か。それは言葉では出口を見つけられない。 音楽はその名前のない感情に形を与えずに、ただ動かす。言語化を迂回して、直接に排出させる。 泣いた後の感覚は何かが通過したと感じ 鳳条 暦
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06/06 09:30
相変わらず、沢山気を遣ってくださる貴方 きっと仕事では大活躍なのでしょうが、どうか会えた時はゆっくりして欲しいのです?? まだまだわからないことがあるから、どうも私はそれを解き明かしたい性分のようです。 楽しみが増えてしまいました? ----- めろめろメローン?? メロンってクリームにこんなにも合うのですね? ----- 大阪で仕事をする日には真っ昼間にカフェに行けてしまうので、 吸い込まれるようにカフェで甘いものをいただきます? しかし聞こえてくるのは、決まって悲しいことばかり。 何か理由はあるのでしょうか? ??主婦の井戸端会議には旦那の悪口が出てくる 最も近い他者 街角の喫茶店、公園のベンチ、スーパーの駐車場。女たちが集まる場所には、決まって夫の話が流れてくる。家事をしない、話を聞かない、気が利かない??内容はいつも似ている。笑い声が混じり、共感の相槌が重なり、その場は不思議と明るい。悪口なのにどこか祝祭めいている。 なぜ夫なのか。なぜ最も近い人間が、最も語られる人間になるのか。 問いを立てるとき、私はまず安全性という言葉を思った。遠い他者への不満は危険を伴う。関係が壊れるかもしれない、伝わってしまうかもしれない。しかし夫は逃げない??という確信がどこかに宿っている。契約があり、生活がある。その重力が、彼を消費しても壊れない対象にする。 だがそれだけでは何かが足りない。 親密さにはもともと暴力性が潜んでいる。 ショーペンハウアーはヤマアラシの寓話を残した。寒さに凍えた獣たちが温もりを求めて近づく。しかし近づきすぎると、互いの針が刺さる。ちょうどいい距離を、彼らは何度も探し直さなければならない。 結婚とは、その針の距離を固定しようとする試みかもしれない。愛情という名のもとに、本来流動的であるべき距離を制度で縫い止める。だから傷つく。制度は距離を固定するが、感情は毎日変化する。そのずれが、言葉になりきれない不満として蓄積し、井戸端会議という排気口から漏れ出す。 なぜ人は結合を求めるのか。 孤独が怖いから、と答えるのは簡単だ。しかしそれは問いの表面をなぞるだけにすぎない。もう少し深く降りると、こんな問いが現れる??人は孤独を恐れているのではなく、自分が存在することを誰かに証明してほしいのではないか、と。 承認は遠い他者からは得にくい。賞賛は一時的で、関係は薄い。しかし最も近い他者は、日常という文脈の中で繰り返し自分を目撃してくれる存在だ。怒った顔も、情けない顔も、眠っている顔も知っている誰か。その視線の中にいることで、人は自分がここにいるという感覚を得る。 愛情と依存の境界が、当人にも見えないのはそのためだと思う。求めているのが愛なのか存在証明なのか、区別する言葉を私たちは持っていない。だから結婚という制度に乗り、その曖昧さごと一緒に生きようとする。 ここで一つの仮説を立ててみたい。 悪口は関係の腐敗ではなく、関係の証明ではないか。 無関心な人間の悪口は言わない。興味のない相手をわざわざ言葉にする必要はない。言葉が誰かに向かうとき、そこにはまだ引力がある。憎しみでさえ、無関心より近い場所にある感情だ。 井戸端会議で夫を語る女たちは、夫を切り捨てているのではない。彼女たちはむしろ、夫との関係を言語化しようとしている。うまく届かなかった言葉を、他者という鏡に映すことで、自分の感情の形を確かめようとしている。悪口という形式しか持てないとしても、それは対話への不完全な試みだ。 矛盾は解消されない。 針は刺さり続け、距離は揺れ続け、言葉は届いたり届かなかったりする。結婚という制度は、その矛盾を解決するためにあるのではなく、矛盾を共に抱えるための器として存在しているのかもしれない。 それでも人は誰かの隣に座ろうとする。傷つくと知りながら、孤独よりも針の痛みを選ぶ。その選択に、論理的な根拠はない。あるのはただ、寒さに耐えられないという、どうしようもなく人間的な事実だけだ。 最も近い他者を持つことは、最も深く傷つく可能性を引き受けることだ。それを知りながら、それでも??と人は一歩踏み出す。 その それでも の中に、 愛と呼ぶしかない何かが静かに宿っている。 貴方の人生に幸あれ 鳳条 暦
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