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06/10 17:45
人間機械論
部品を交換できる存在でありたい
人間機械論を哲学書から語るより、もっと手前に出発点がある。
感情が激しすぎて、身体がついていけない。感情がどこから来るのかわからなくて、自分のものとして馴染まない。
そういう人間にとって、部品を外せる存在でありたいという欲望は逃避ではない。むしろ生存のための設計思想だ。
この感覚はいくつかの方向に枝分かれする。
ひとつは、脱同一性の欲望。固定した私に縛られたくない。自分を組み替えられる、柔軟な存在でいたい。ドゥルーズが器官なき身体と呼んだものに近い感覚??機能や役割に縛られる前の、まだ何にでもなれる状態への憧れ。
彼はそれを欠如ではなく、可能性の最大値として語った。部品が外れた状態は壊れた状態ではなく、まだ組まれていない状態だ。
もうひとつは修繕可能性への安心。壊れても直せる。完全でなくていい。機械なら故障は恥ではない。
ここで大事なのは、機械の優れた点は壊れても直せることではない、ということだ。壊れた部分を特定できること??それが本質だと思う。どこが故障しているかがわかれば、全体が崩壊しなくて済む。感情という部品を一時的に外しておける存在。それは冷たい存在ではなく、自分を壊さないための知恵を持った存在だ。
そして三つ目は、主体の解体。核としての自己を解体し、関係や文脈の中で変容し続けたい??仏教の無我論が指し示す方向と、どこか重なる。
仏教は固定した自己などないと言う。それは虚無ではなく、自己が川のように流れ続けているという見方だ。部品が入れ替わっても川は川であるように、自己は核ではなく流れそのものかもしれない。
自己という核を軽くしたい、という感覚もここから来ている。重い核を持つ機械は、少しの衝撃で全体が揺れる。核が軽ければ、何かが壊れてもそれはただの部品交換で済む。
感情が身体に馴染まないと感じる人間にとって、機械であることは呪いではない??ひとつの自由の形だ。デカルトはそれを恐れた。でも内側から機械論に辿り着いた人間には、その恐れがよくわからない。
デカルトが守りたかったのは霊魂だった。人間を機械と見なすことで、何か大切なものが失われると感じた。でも逆に問いたい。感情が自分のものとして馴染まないなら、その感情は本当に私の霊魂だったのか。
むしろ、部品として扱えるようになったとき、はじめてそれが自分にとって何だったのかが見えるかもしれない。外してみてはじめて、その部品の形がわかる。抱えたままでは、形すら確かめられない。
機械でありたいという欲望は、冷たさへの憧れではない。自分を知るための、もうひとつの触れ方
外せてしまえば、きっといくらでも無理が効く
鳳条 暦
<< 2026年6月

































