
オゴトガイド見たとお電話ください!
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08/22 21:30
「これはあなたのために書いたんじゃないんだよ」 そう言われたとしても、別に構わない。 ? あなたが知らないところで、その歌に救われた夜があって、その小説のおかげで少しだけ明日が楽しみになって、その映画や絵を思い出すことで、どうにか今日を好きでいられた人がいる。 ? 創作は、つくった人の手を離れた瞬間から、 誰のためのものになるかを選べなくなる。 作者にとっては、ただの一曲、ただの一冊、 人生の途中でつくった作品のひとつだったとしても、 誰かにとっては、その時の人生そのものになることがある。 ? 「あなたのためじゃない」それでもいい。 ? 私は勝手に受け取って、勝手に心を動かされて、あなたの知らないところで、生きるに値する毎日を過ごしていた。 ? それが創作の、少し不思議で、とても素晴らしいところだと思う。 鳳条 暦
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08/21 09:30
誰も見ていない所でも、常にどういう人間でありたいか。 ? 最近、この問いが頭から離れない。 人は誰かに見られているときよりも、誰も見ていないときに本当の姿が表れると言われる。 だからこそ自分を律するためには罰や評価ではなく、もっと静かな支えが必要なのだと思う。 私はそれを信仰心 のようなものと呼びたい。 ? 宗教を信じるという意味ではない。 もっと小さくてもっと個人的なもの。 「こういう人間でありたい」という、自分だけが知っている約束。 それがある人は、誰も見ていない場所でも、自分を裏切らない。 ? 今はあまりにも情報が多い時代だ。 SNSを開けば誰かの成功が流れ、誰かの正しさが流れ、誰かの幸せが流れてくる。 何が正しいのか、何が美しいのか、何を選ぶべきなのか。 世界は絶えず答えを差し出してくる。 便利になった反面、人は自分の答えを持つ前に他人の答えを浴び続けるようになった。 すると知らないうちに、自分が何を信じていたのかさえ分からなくなる。 昨日まで大切だった価値観が、誰かの一言で揺らぐ。 誰かの評価一つで、自分の価値まで変わったような気がしてしまう。 情報が多いということは、選択肢が増えたということでもある。 しかし同時に、自分という軸を失いやすくなったということでもある。 ? だから私は人には何か一つ、自分だけの信仰 が必要なのだと思う。 それは神様でなくてもいい。 哲学でも、本でも、一人の作家でも、一つの言葉でもいい。 この考え方だけは最後まで手放したくない。 そんな小さな灯火があるだけで、人は迷いながらも歩いていける。 信仰とは世界の正しさを信じることではない。 自分がどう生きたいかを、忘れないための装置なのかもしれない。 ? 人生には誰も褒めてくれない選択がある。 落ちているゴミを拾うこと。 陰で誰かを悪く言わないこと。 約束を守ること。 嘘をつかないこと。 感謝を口にすること。 そんな行動は、拍手も賞賛も生まない。 けれどその積み重ねが人格になる。 人格とは誰かに見せるためのものではなく、誰も見ていない場所で繰り返した選択の総和なのだと思う。 だから私は、見られているから正しくある のではなく、見られていなくても、この人でありたい と思える自分でいたい。 ? 海が誰も見ていなくても波を打ち、星が誰も見ていなくても夜空を照らすように、人もまた誰かの視線ではなく、自分の信じるものによって生きられたら美しい。 結局、人を最後まで支えるのは他人の評価ではない。 「私はこういう人間でありたい。」 その静かな祈りだけが、人生のあらゆる雑音を越えて、自分を前へ運んでくれるのだと思う。 ? 鳳条 暦
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08/20 09:45
その問いから、大岡昇平の小説『野火』に登場する「猿の肉」を連想した。 『野火』では、敗戦間近のフィリピン・レイテ島で、日本兵たちが激しい飢餓に追い詰められていく。主人公の田村一等兵は、「猿の肉」だと言われ、干した肉を差し出される。しかし、それは本当の猿ではなく、死んだ兵士、あるいは殺された人間の肉であることが示されている。 なぜ、人間の肉を「猿の肉」と呼んだのだろう。 猿は人間に近い姿をしている。しかし、人間ではない。 「これは人間ではない。猿なのだ」 そう言い換えることで、食べる側は、自分たちのしていることの恐ろしさから目をそらすことができる。 つまり「猿の肉」は、単なる嘘や隠語ではない。 それは、人間を人間と思わずに済ませるための言葉であり、自分の行為を自分自身から隠すための言葉でもある。 人肉だとはっきり認めてしまえば、自分が越えてはいけない一線を越えたことを直視しなければならない。 だから名前を変える。 「人」を「猿」に置き換えることで、殺された誰かを、人格のある一人の人間ではなく食料として扱えるものに変えてしまう。 戦争の中では、こうした言葉の置き換えが繰り返される。 人を殺すことを処理と呼び、死を損耗と呼び、奪うことを作戦と呼ぶ。 言葉を抽象的にすることで、その向こうにある身体や苦痛を見えにくくする。 「猿の肉」もまた、言葉によって罪悪感を薄めるためのものだったのかもしれない。 けれど、『野火』の恐ろしさは、「悪い人間が人を食べた」という単純な話ではないところにある。 飢餓によって倫理や常識が崩れ、生き延びるために、他者を人間ではなく、食料として見始める。 戦争は、人の命を奪うだけではない。 人間を人間として見る感覚そのものまで破壊してしまう。 食べなければ死ぬという状況では、平時なら絶対に越えないはずの境界が崩れていく。 人を食べてはいけないという倫理よりも、空腹や死への恐怖の方が強くなる。 けれど、たとえそれが生き残るための行為だったとしても、戦争が終わり、日常に戻った瞬間、その経験は語れないものになる。 戦場では生きるために必要だった行為が、平和な社会では罪や恥として扱われる。 その人は命だけでなく、誰にも話せない記憶まで抱えて帰ってきたのだと思う。 生き残ったことを素直に喜ぶこともできない。 食べたことを告白することもできない。 忘れたくても、身体が覚えている。 戦争の悲惨さは、死者の数や戦況として語られることが多い。 それは英雄的な物語でも、抽象的な悲劇でもない。 人の肉を噛み、舌で味わい、それによって自分の命をつないだという身体の記憶である。 戦争が終わっても、その味は、口の中から完全には消えなかったのではないか。 普通の食事をするときにも、肉を見たときにも、ふと蘇ることがあったかもしれない。 そして、その記憶を誰にも話せなかったのだとすれば、生き残ることは、それだけで救いだったとは言い切れない。 戦争は、生き残った者にまで罰を与える。 死なずに帰ってきた代わりに、平和な世界では理解されない記憶を一生背負わせる。 『ちいかわ』の映画を観た後に残ったのも単純な怖さだけではなかった。 かわいい、楽しい、仲間を大切にしたいという気持ちのすぐそばに命は誰のものなのか、誰かの犠牲によって得た幸せを受け入れられるのか という問いが残った。 『ちいかわ』の登場人物たちは、とても小さく、強い存在ではない。 だからこそ、自分一人の力ではどうにもならない世界で、それでも友達を助けようとする姿が心に残る。 極限状態では、自分だけが助かりたいと思っても不思議ではない。 それでも、誰かを見捨てず、食べられる側の痛みを想像しようとすること。 それがこの物語の中で、人間性に近いものとして描かれていたように感じた。 見た目のかわいさとは反対に、『ちいかわ』は、「弱い者が優しくあり続けることの難しさ」を描いているのだと思う。 力があり、余裕があるときに優しくするのはそれほど難しくない。 けれど自分も怖くて、苦しくて、助かりたいと願っているときに、それでも他者の命を命として見ることができるのか。 そこに本当の優しさが試される。 『野火』における「猿の肉」は、人肉を人肉と思わずに済ませるための偽名だった。 それは生き延びるために、他者を人間として見ないようにする言葉だった。 一方、『ちいかわ』の映画では、食べられる側にも感情があり、関係があり、生きたいという願いがあることを、かわいい姿を通して否応なく見せられる。 だから食べることをただの行為として切り離せない。 食べ物の向こうに命が見えてしまう。 その点で、二つの作品は正反対の方向から、同じ境界を描いているように思う。 『野火』では、人間を食べるために、その存在を「猿」と呼び、人間性を見えなくする。 『ちいかわ』では、食べられようとする存在にも心や物語を与え、見えなくされていた命をもう一度こちらに見せる。 見ないことで食べられる。 見えてしまえば、簡単には食べられない。 その差は、他者を命として想像できるかどうかにある。 私たちは普段、食べる側の視点で世界を見ている。 食卓に並んだ肉を見ても、それがかつて一つの命であり、身体であり、何かを感じる存在だったことを意識し続けるのは難しい。 そうしなければ、日常的に食べることができないからでもある。 つまり私たちも程度は違っていても、名前や形を変えることで、「命だったもの」を「食べ物」として受け入れている。 けれど人間の肉の場合、その変換は簡単にはできない。 食料と人間との境界が崩れた瞬間、自分自身もまた、誰かにとっての食料になり得る存在だと気づいてしまうからだ。 『野火』における「猿の肉」は、その境界を無理やり曖昧にする言葉だった。 『ちいかわ』の映画を観て、私は、命の重さを理解することは、ただ「かわいそう」と思うことではないのだと感じた。 自分が助かる側にいるときにも、犠牲になる側の存在を忘れないこと。 自分の大切な者を救いたいと願いながら、そのために傷つく別の誰かにも目を向けること。 その両方を同時に考え続けることが命を命として見るということなのかもしれない。 戦争の本当の恐ろしさとは、人を死なせることだけではない。 人間に、人間であることを一時的に捨てなければ生きられない選択をさせること。 そして、生き残った後も、その人に、自分が人間であることを疑わせ続けることなのだと思う。 そして『ちいかわ』の映画は、かわいらしい物語の姿を借りて、その包まれていたものを、もう一度こちらに見せてきた。 食べられるものにも、命がある。 生き残る者にも、罪が残る。 そして自分が生きたいと願うことと、他者を犠牲にしたくないと願うことは、ときに両立しない。 その答えの出ない残酷さを、あえて小さくてかわいい存在たちに背負わせたからこそ 私はこの映画をただ楽しかった、怖かったという言葉だけでは終わらせられなかった。 生きるということが、ときに善悪では整理できないほど残酷になること。 人間は極限状態で、他者を人間として見られなくなることがあること。きっとどこまでいっても私たちは小賢しい生き物なのでしょうね もう一回くらい映画みたいな? 鳳条 暦 ?
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08/19 09:45
ち い か わ なんかちいさくてかわいいやつ 愛くるしくてこんなにも可愛らしいだけにも思えるのに、多くの大人を巻き込んで映画は大ヒット。まだ上映しております? 『ちいかわ』の映画を観ながら、どこかで聞いた話を思い出した。 戦時中、人の肉を食べて生き残った人がいたのだと 「味は酸っぱかったらしい。でもそれは誰にも言ってはいけないことだったんだ」 私はおそらくその話の意味をよく理解していなかった。ただ人の肉を食べたという恐ろしさと、「誰にも言ってはいけない」という言葉だけが、妙に生々しく記憶に残った。 なぜ、『ちいかわ』の映画を観て、その話を思い出したのだろう。 ちいかわたちは、見た目だけなら小さくてかわいい存在たちが暮らす優しい物語に見える。ちいかわたちは食べ物を喜び、友達と笑い、ささやかな幸せを大切にしている。 けれど、その世界にはいつも、かわいさだけでは覆いきれない残酷さがある。 食べること、生きること、奪うこと。 誰かの願いが、別の誰かの犠牲の上に成り立っていること。 映画の中でも、その不穏さは、かわいらしい絵柄や明るい場面のすぐ隣に置かれていた。 だからこそ私は怖かった。 初めから暗く残酷な物語であれば、見る側も身構えることができる。しかし、『ちいかわ』の登場人物たちは、私たちが守りたくなるほど無垢で、素直で、弱い。 その存在たちが、命や犠牲に関わる問題に巻き込まれることで、「これは空想の中だけの話ではない」と感じてしまう。 生きるということは、ただ美しいだけではない。 どれほど優しい者でも、生きるためには何かを食べ、何かに守られ、時には誰かの犠牲によって助けられている。 映画を観ている間、私は、登場人物たちに幸せでいてほしいと思っていた。 誰も傷つかず、誰も失われず、いつものように食べ物を囲んで笑ってほしい。 けれど、その「幸せでいてほしい」という願いさえ、場合によっては別の存在の犠牲を見えなくする。 自分の好きな者だけが助かればよいのか。 その幸せのために、名前も知らない誰かが傷ついていたとしても、私たちは目をそらしてしまうのではないか。 『ちいかわ』の怖さは、悪者と善人を簡単に分けないところにある。 何かを求める者にも事情があり、生きたいと願う者にも理由がある。 しかし、その切実な願いが、別の命を奪うことにつながる。 「生きたい」という気持ちは本来、責められるものではない。それでも、自分が生きるためなら、他者を犠牲にしてよいのかという問いは残る。 鳳条 暦 後編へ続く ?
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08/16 09:15
? 「こうなりたい」と言われても、遠すぎる未来のことはまだ分からない。 十年後の私が何を望んでいるのか、今の私が決めてしまう必要もないと思う。 だから私は、「こうなりたい」よりも「こうはなりたくない」を道標にしたい。 選択肢のない人生にはしたくないから、できることを増やしておく。 誰かに人生を預けきりたくないから、自分で生きられる力を残しておく。 いつか後悔したくないから、大切なものを今、大切にしておく。 遠くのゴールは見えなくても、避けたい場所なら分かることがある。 人生の分かれ道で「どちらが正解か」ではなく、どちらを選べば、望まない未来から遠ざかれるかを考える。 そうやって最悪をひとつずつ避けながら、未来の自分が自由に選べる余白を残していきたい。 ? 最高の未来なんて、今はまだ決められなくていい。 ? 最悪を回避し続けたその先で、 今の私にはまだ想像もできないような、 良い未来を掴めますように。 ? 鳳条 暦
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08/10 19:30
よその花が咲いても ? あの人は、あの人の人生を生きている。 私は、私の人生を生きている これは、誰かを見て心が揺れたとき、自分の人生へ帰ってくるための合言葉。 人の幸せは、ときどき眩しい。 夢を叶えた人。愛されている人。遠い国へ旅をしている人。たくさんの友達に囲まれて、楽しそうな週末を過ごしている人。 そんな姿を見ていると、いつの間にか私たちは、相手の人生を眺めながら自分の人生を採点し始めてしまう。 「あの人は、もうあんなところまで行っている」 「それに比べて私は、何をしているんだろう」 けれど、誰かが夢を叶えたからといって、世界から夢を叶えられる人数がひとり分減るわけではない。 誰かが愛されたからといって、私に向けられる愛が減るわけでもない。 友達が華やかな週末を過ごしていたからといって、私がひとりで過ごした一日が、急に寂しい一日に変わるわけでもない。 誰かの幸福は、本来、私の幸福を奪うものではない。 それなのに苦しくなるのは、相手が遠くへ進んだからではなく、いつの間にか自分の枝から目を離して、隣の木に実った果実ばかり数えているからなのかもしれない。 「あっちには、こんなに実っている」 「私の木には、まだ何もない」 そう思ってしまう。 でも、自分の枝へ視線を戻してみればいい。 まだ小さな芽があるかもしれない。 昨日より少し伸びた枝があるかもしれない。 誰にも見えないところで、土の中へ深く伸びている根もあるかもしれない。 人生には、花を咲かせる季節だけではなく、根を張る季節がある。 外から見れば 何も起きていない時間が、その人にとっていちばん大切な時間であることだってある。 ? だから人生を外側の派手さだけで比べなくていい。 誰かの週末がハワイでもいい。 青い海を眺めて、素敵なホテルで朝を迎えて、絵に描いたような休日を過ごしていてもいい。 そして同じ土曜日、私はベッドとほとんど一体化して、好きなものを食べて、眠くなったら昼寝をして、「今日は何もしなかったな」と笑っていてもいい。 その一日を終えた私が、 ああ、最高にのんびりできた。優勝! と思えたのなら、その日はちゃんと私にとっての幸福だ。 ? 人生は、同じコースを走る競争ではない。 だから「あの人より遅れている」という言葉も、本当は少しおかしい。 向かう場所も、欲しいものも、咲く季節も違うのだから。 誰かを見て焦ったときは、自分に戻ってくればいい。 そして、自分の枝を見る。今日、水をやるものは何だろう。これから育てたいものは何だろう。私は本当は、どんな一日を幸せ と呼びたいのだろう。 隣の木を見ているあいだにも、自分の木は静かに生きている。 戻ればいい。 育てるものは、ちゃんとここに残っている。 ? 鳳条 暦
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08/08 17:15
クソみたいな一日だった。 ? クソみたいな街を歩いて、ウソみたいに綺麗な花を買った。 誰のためなのかも分からないまま。 ? 疑い始めると、この世界はどこまでも嘘くさい。優しさも、約束も、笑顔も。 全部、都合のいい物語なんじゃないかと思えてくる。 ? でも、君の歌が流れた瞬間だけは違った。 ? 頭の中に立ち込めていた霧が、少しずつ晴れていく。理由なんていらない。 正しいかどうかも、もうどうでもよかった。 ? 君が好きだ。本当に好きだ。 だから、君なんか嫌いだ。 好きなものほど、自分を簡単に壊してしまうから。救ってくれるものほど、失うことが怖いから。 ? 君の歌が好きだ。何度だって好きだ。 だから、君の歌なんか嫌いだ。 終われば静けさだけが残る。最初から何もなかったみたいな夜が来る。それでもまた、明日になれば君を探してしまう。 ? だから今日だけは言わせてほしい。 おやすみ、泣き声。 さよなら、歌姫。 きっと明日も、このさよならは守れないのだけれど。 ? 鳳条 暦
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08/08 09:30
美味しいチョコレートにピッタリなのは、きっとこんな話でしょう? 結論 FRBが「会合ごとにゼロベースで判断する」姿勢へ移行すること自体は、中央銀行本来のあり方に近い。一方で、市場は長年「FRBは先回りして答えを教えてくれる存在」に慣れすぎた面もある。しかし、コミュニケーションが不透明になりすぎれば、市場の予測可能性を損ない、かえって不要な混乱やボラティリティ(価格変動)を招く危険もある。 重要なのは「将来の結論」を約束することではなく、「どのような条件で判断するのか」という判断基準だけは市場と共有し続けることだろう。 ? ? 用語 ボラティリティ(Volatility) :株価や為替などの価格が大きく変動する度合い。 予測可能性(Predictability) :市場参加者が将来の政策や経済の動きをある程度見通せること。 ゼロベース :過去の方針や既定路線に縛られず、その時点の状況だけを見て一から判断する考え方。 ? ? 中央銀行は、本来、市場を安心させるために存在しているわけではない。物価の安定や雇用の維持という使命を果たすため、その時々の経済データに基づいて最適な政策を決めることが役割である。そう考えれば、「すべての会合はゼロベースで判断する」という姿勢は、むしろ自然なものとも言える。 ? 一方で、市場は長年にわたり、FRBが将来の政策をできるだけ丁寧に説明し、予測しやすい環境をつくることに慣れてきた。その結果政策そのものよりも、「次回は何を言うのか」「いつ利下げを示唆するのか」といったメッセージばかりを追いかける文化が生まれた面もある。 ? しかし、未来は誰にも分からない。数か月後の経済環境すら確実には予測できない以上、中央銀行が将来を断言すること自体に無理がある。もし事前の約束に縛られれば、本当に必要な局面で柔軟な政策変更が難しくなってしまう。 ? だからといって、説明責任まで放棄してよいわけではない。市場が求めているのは、必ずしも「次回は利下げします」という答えではない。「インフレがこの程度まで落ち着けば」「雇用がここまで悪化すれば」という判断基準が共有されていれば、市場は自ら将来を考え、価格に織り込むことができる。 ? 結局、FRBに必要なのは 未来の約束ではなく、判断の透明性 なのだろう。 ? ウォーシュ流のコミュニケーションは、「中央銀行は未来を約束する機関ではない」という原点に立ち返ろうとしているようにも見える。ただ、その姿勢が市場との対話まで失ってしまえば、不確実性だけが増し、余計な混乱を招く可能性もある。 ? 中央銀行が示すべきなのは、未来の答えではなく、未来を判断するための物差しである。 その物差しさえ共有されていれば、市場は「何が起きるか」は分からなくても、「なぜそうなったのか」は理解できる。それこそが、これからのFRBに求められるコミュニケーションなのではないだろう。 鳳条 暦
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08/06 09:30
眠ることはただ身体を休ませることではない。 ? 一日を生きる中で、人はたくさんの言葉や感情に触れる。誰かの悪意、雑音、期待、評価。自分では気づかないうちに、それらは少しずつ心に降り積もっていく。 ? 十分な睡眠をとると、心には薄くて丈夫な膜ができる。 嫌な言葉はその膜に当たって跳ね返り、本当に大切なものだけを静かに受け止められるようになる。 だから感情に飲み込まれず、自分らしさを保っていられる。 ? 反対に睡眠が足りない日はその膜が薄くなる。 普段なら気にも留めない一言が胸に刺さり、小さな出来事まで大きなストレスとして感じてしまう。 世界が急に冷たく見える日があるのは、世界が変わったからではなく、自分を守る膜が弱っているからなのかもしれない。 ? だから、眠ることは怠けることではない。 明日の自分を守るための準備であり、心の免疫を育てる時間だ。 ? いい睡眠は、体力だけでなく、優しさも、余裕も、前向きさも育ててくれる。 人に優しくなれない日、何もかも悪く思える日は、自分を責める前に、まず眠ってみる。 ? 人は眠るたびに明日を生きるための 自分らしさ をもう一度まとい直しているのだから。 ? 睡眠とは、今日傷ついた心を修復する時間ではない。明日また世界を愛せるように、自分を包む透明な膜を編み直す時間なのだ。 ? 鳳条 暦
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08/05 09:30
人は、現実そのものではなく、現実をどう受け取るかによって苦しみも幸せも決まる。 ? 変えられないもの と 変えられるもの ? 人は過去を変えられない。他人も変えられない。出来事そのものも変えられない。でも出来事に意味を与えるのは自分。 ? だから人生は、何が起きたかよりも、 それをどう解釈したかの積み重ねになる。 ? ? 苦しみの正体 ? 苦しみの多くは、出来事そのものではなく こうあるべき、理解されたい、認められたい、変わってほしい。という執着とのズレから生まれる。 ? だから苦しみを消そうとするより、苦しみが生まれる仕組みを知る方が人は楽になる。 ? 人は理解より共感で救われる ? 人は正論では動かない。アドバイスよりも、 「それは苦しかったね」と言われた時の方が涙が出る。 ? なぜなら人は問題を解決してほしいのではなく、自分の世界を一緒に見てもらえたと感じたい生き物だから。 共感とは同意ではない。相手の景色を相手の目線で一度見ようとすること。 ? ? 心は受け入れられた時に変わる ? 人は否定されると守りに入る。受け入れられると初めて変われる。 だから変化は責められた時ではなく、安心できた時に起こる。 植物が日光で育つように、心は安心で育つ。 ? ? 他人との関係は、自分との関係の映し鏡 ? 自分を責め続ける人は他人にも厳しくなる。 自分を許せる人は他人も許しやすくなる。 結局、人間関係とは相手との問題というより、 自分自身との対話が外側に映っているだけなのかもしれない。 ? ? 人生は自分や他人を変えることではなく、理解しようとする姿勢を育てる旅なのだ。 結局は『自分で選ぶ』ことが人生を変える。 ? 鳳条 暦
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08/04 09:30
あわいとは、どちらか一方ではない場所のこと。 ? 海と川が混ざり合う汽水域のように、夜が朝へ溶けていく明け方のように、「これが答えです」と言い切れない境界には、いつも少しの不安と、少しの美しさが共存しています。 ? 私たちは曖昧さに落ち着かなさを覚えます。 好きか嫌いか。正しいか間違っているか。 続いているのか終わったのか。 白黒つけたくなるのは、答えがあれば安心できるからです。 ? けれど人生を振り返ると、本当に大きな出来事は、いつも あわい の中で起きています。 子どもから大人になる時間。誰かを好きになり始める瞬間。別れを受け入れていく日々。新しい土地で生き始める心細さ。 ? どれも「もうこちら側ではない。でも、まだあちら側でもない」という宙ぶらりんな時間です。 ? あわいにあるものを傷 と重ねます。 ? 傷とは、血が流れている状態だけではありません。 ? 時間が経ってから突然痛み出す記憶も、もう忘れたはずなのに胸が締めつけられる感情も、人には説明できない寂しさも、傷が癒えていく途中のかすかな違和感も、すべて傷と傷ではないものの あわい にあります。 ? だから傷は、ある・ないでは語れません。 悲しみの隣には希望があり、後悔の隣には優しさがあり、孤独の隣には誰かを求める気持ちがあります。 人の心は、一つの言葉では決して括れないほど複雑なのです。 ? 傷だけを見れば、人は弱く見えるかもしれない。 けれど、その傷を抱えながら今日も誰かを愛し、笑い、迷い、前へ進もうとする姿を見れば、それは弱さではなく、生きる力そのものになります。 ? あわい は完成していない場所です。 だから不安で、居心地が悪い。 けれど同時に、人はその場所でしか変われません。 蝶はさなぎのあわい を通り、朝は夜のあわい から生まれます。 ? 人生もまた、何者でもない時間を経ることで、新しい自分へと姿を変えていきます。 ? だから今もし、自分がどこにも属していないような感覚や、答えの出ない迷いの中にいるなら、それは立ち止まっているのではなく、変化の途中なのかもしれません。 ? あわい とは、終わりでも始まりでもない場所。 けれど、人が最も深く生き、人間らしくなれる場所でもあるのでしょう。 ? 傷を愛せるか ? 人は「はっきりしないもの」に耐えられない生き物だけれど、本当に大切なものほど、その曖昧な場所に宿っている ? 鳳条 暦
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08/03 09:45
? 海を見に行く人は、海を見たいわけじゃない気がする。海は、ただそこにある。 ? 波は誰かのために寄せては返すわけでもなく、水平線は何かを語るわけでもない。それでも、人は疲れたときや迷ったとき、嬉しいことがあったときでさえ、海へ向かう。 ? ハーマン・メルヴィルはこう言った。 「海、それは自分の心をありのまま映し出す鏡だ。」 ? 同じ景色を見ても、美しいと思う日もあれば、寂しいと思う日もある。穏やかだと感じる日もあれば、果てしなく遠く感じる日もある。 ? 変わっているのは海ではない。 その海を見つめる、自分の心だ。 だから私たちは、海を見に行くというより、自分自身に会いに行っているのかもしれない。 ? 波の音は不思議だ。 何かを教えてくれるわけではないのに、考えごとを少しずつさらっていく。答えを与えるのではなく、「まだ答えを出さなくてもいい」と教えてくれる。 ? 広い海を前にすると、自分が抱えていた悩みは急に小さく見える。 もちろん、問題がなくなるわけではない。 でも、自分だけが世界の中心ではないと気づける。その小ささは、決して惨めさではなく、心を軽くしてくれる小ささだ。 ? だから海へ行く時間は、「何かを決める時間」ではない。 「何も決めなくていい時間」なのだ。 ? もう一つ見てしまうものは隣にいる人だ。 ? ふと横を見ると、風で前髪を揺らしながら海を眺めるその横顔がある。 ? その人は何を考えているのだろう。 波の音に何を預けているのだろう。 私は、その答えを知りたいわけではない。 ただ、その人が静かに海を見つめている姿を見ていたい。 だから本当は、海そのものを見たいわけじゃない。 海が映し出すその人の心を、そして海を見つめるその横顔を見たいのだ。 ? 海は何も語らない。 けれど、何も語らないからこそ、人は自分の心の声を聞くことができる。 だから今日も誰かは海へ向かう。 景色を見に行くためではない。 ? 言葉にならない感情を、潮風に預けるために。 ? 私は実は海のことまだ怖いと思うんです。貴方様は海を見る時何を考えますか? ? 鳳条 暦
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07/31 16:03
少し早いですが、来週の空き枠のお知らせです? 8/3(月) 13:15- 8/4(火) 11:00- 13:15- 8/5(水) 13:15- 7.8.9日はお休みをいただきますが、 上記以外の枠は現在は満たしていただいております?? お時間が合えば、お会いできたら嬉しいです? また今日は面白い本を教えてもらいました? 早速読めそうですから、またこちらの日記でも紹介できるのが楽しみです。
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07/31 09:35
理解は他者とのあいだで初めて試される ? 理解とは、答えを知っていることではない。 ? 私たちは答えが出せると理解した と思いがちです。でも実際には、その答えを導く手順を暗記しているだけかもしれない。 ? 本当の理解とは、 状況が変わっても自分の言葉で本質を取り出せること です。 ? なので、小学生にも説明できるかを基準にするのは面白いかもしれませんし、理にかなっている気がしますね。 ? 難しい言葉を並べることは知識の証明にはなっても、理解の証明にはならない。 ? ? 人は理解した!と思った瞬間から理解をやめてしまう。 ? わかったと思うことは安心。でもその安心はときに思考を止めます。 ? だから他人に説明すると、なんで?それってつまり?と聞かれる。その瞬間、自分の理解に穴が見える。 ? つまり質問されることは、自分の無知を暴かれることではなく、 理解が深くなる入り口 なのです。 ? ? 理解は一人では完成しない。 ? 周りの人に説明してみることをお勧めします。 ? 理解とは自分の頭の中だけで閉じているものではありません。相手が理解してくれなかったとき、相手の理解力がない と切り捨てるのは簡単です。 ? 自分の説明に固執していないか と問い返す ? つまり理解とは 自分を変えられる柔軟さ でもあるのですね。 ? ? 伝わらないと理解していないは紙一重。 ? 同じ景色を見ていても、人によって知識も経験も違う。 ? だから本当に理解している人ほど、相手によって説明を変えられます。 ? 数学者は数学者に、子どもには子どもの言葉で。 ? どちらも同じ本質を話している。もし説明が一つしかできないなら、その人は言葉を覚えているだけで、本質はまだ掴めていないのかもしれません。 ? ? 理解とは、翻訳する力なのかもしれない。 ? 日本語を英語に翻訳するように、数式を言葉に、専門知識を日常に、抽象を具体に、具体を抽象に。 自由に行き来できる。 ? だから理解とは知識の量ではなく、 異なる世界をつなぐ力 とも言える。 ? ? ? 私は理解 は静止した状態ではなく、 生き物のようなもの だと感じます。 ? 理解したと思った瞬間から、それは古くなります。誰かに話し、質問され、別の視点を知るたびに形を変えていく。本当の理解とは知っていること ではなく、 何度でも壊され、組み立て直せること なのかもしれませんね。 ? 理解の反対は無知 では なく、もう十分わかった と思い込むこと。 その瞬間、人は学ぶことをやめてしまうからです。 ? これを教えてくれた本の名前が思い出せない? ? 鳳条 暦
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07/30 09:45
言葉は善意にとれ。その方が五倍も賢い ? 私はこの言葉は、嫌味や皮肉を我慢して受け流しなさい という意味ではないと思っています。 ? 本当に悪意がある人からは距離を置けばいいし、傷つけられたなら傷ついたと認めていい。 ? でも多くの人間関係はそこまで白黒はっきりしていません。 ? 言葉は不器用で伝え方が下手な人もいる。忙しくて余裕がなかっただけかもしれないし、照れ隠しだったのかもしれない。逆に本当は好意だったとしても、それを証明する術はありません。 ? だから本心を当てようとするな と言っているのではないでしょうか。 ? 本心は相手の中にあるもの。だけど、その言葉をどう受け取るかは自分の中にあるもの。 ? 悪意を探し始めれば、どんな言葉にも棘は見つかります。反対に、善意を探せば、同じ言葉が優しさに変わることもあります。 ? もちろん、事実までねじ曲げる必要はありません。ただ、証拠のない もしかして嫌われているのかも、馬鹿にされたのかも という想像まで、自分を苦しめる材料にしなくてもいい。 ? 結局、他人の本心は誰にも分からない。 それなら自分の心が穏やかでいられる解釈を選ぶ方が、人生はずっと軽くなる。 ? 善意に受け取ることはお人好しになることではなく、 自分の心を守る知性 なのだと思います。 ? シェイクスピアの言葉は善意にとれ。その方が五倍も賢い という言葉は、相手のためではなく、実は自分自身のための処世術なのかもしれませんね ----- 縁側で猫を撫でながら食べたい一品でした? ? 鳳条 暦
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07/29 16:30
本当にまっすぐな人と出会うと、自分まで優しくほどけていく。 ? 誠実さは、誰かを変えようとする力ではなく、安心して「そのままでいてもいい」と思わせる力なのだと思う。 ? 飾らず、駆け引きもせず、目の前の人を大切にできる人。 その人にも傷ついた過去や、影が差す日はきっとある。それでも心を閉ざすのではなく、今日も小さな信頼を積み重ねて生きている。 ? 人は優しさを与えられると、優しくなろうとする。 信じてもらえると、信じることを思い出す。 ? だから、まっすぐな人の隣では、自分の中の棘まで少しずつ丸くなっていく。 ? 心が日なたに出る。 胸にそっと、向日葵が咲く。 鳳条 暦
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07/26 15:45
来週の空き枠についてお知らせです? 7/31(金) 11:00- 13:15- それ以外の日時については現時点で全て満たしていただきました?? お会いできるのを楽しみにしています! 今年のピークは8.9月になるのではないかと思うほど、バタバタしている気がするのですが、 私が去年新しい道を選ぶと決めた時に心に誓ったのは両立でした? 今の私も、これからの私も大切にしていきたいと考えております。 来週もよろしくね? 鳳条 暦
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07/22 09:18
可愛いと囁く貴方、視線は耳のあたりを掠めます。 笑う私を見て、貴方も笑う。 笑顔はきっと伝染するのでしょう? 時間いっぱい向き合って、もっと貴方のことを知りたいと思います。 山でしかできない体験が貴方に広い視野をもたらしているのだと感じました。 8月はもう目の前ですね? ? 鳳条 暦
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07/21 09:30
人は社会に生きている。 会社や学校、組織という盤上で、それぞれ役割を持ち、期待され、評価される。 盤の上には秩序があり、安全がある。 生活を支える仕組みがある。 だから盤そのものを否定することはできない。 しかし、盤にはもう一つの性質がある。 盤は、役に立つかどうかでしか駒を見ない。 動けば価値がある。止まれば交換される。 逆向きに回れば異物になる。 それは仕組みとして当然なのかもしれない。 問題は、その価値観を人間自身まで信じ込んでしまうことだ。 お星さまの街 が問いかけるもの お星さまの街 には、お金も、生産性も、効率もない。あるのは、星を見上げる時間だけ。 現実から見ればそれは何の役にも立たない。 人間は役に立つものだけでは生きられない。もし役に立つことだけが人生なら、 芸術はいらない。音楽もいらない。 小説も、恋もいらない。 夜空もいらない。 けれど私たちはそれらを必要としてしまう。 なぜなら、人間は生き延びるためだけに生まれた存在ではないからだ。 星は何を象徴しているのか 私は、星とは希望だけではないと思う。 星とは、役に立たないけれど、自分を人間にしてくれるものの象徴なのだと思う。 本を読んで泣くこと。絵を見て言葉を失うこと。好きな人を思うこと。 夜にふと散歩したくなること。 雨の日が好きだと感じること。 人生について考え込むこと。 どれも生活には必要ない。 でも人間には必要だ。 星が消えたのではない。星を見る心が失われてしまった。 という言葉は、とても残酷で、そして優しい。 駒はいつ星を見なくなるのか 所詮私たちは駒なのかもしれない。 この言葉は間違っていない。 組織から見れば、人は役割を果たす存在だ。 けれど駒であることと、駒としてしか生きられないことは違う。 本当に怖いのは駒として働くことではなく、駒としてしか自分を見られなくなること。 今日はどれだけ成果を出したか。 私は役に立ったか。必要とされているか。 その問いだけで自分を測るようになった瞬間、人は少しずつ星を見上げなくなる。 大人になるということ お星さまの街 は、大人を否定していない。 現実は厳しい。働かなければ生きていけない。責任もある。 だから盤の上で生きることは避けられない。 でも大人になることと、夢を捨てることは同じではない。 現実を見ることと、星を見なくなることも同じではない。 本当の大人とは、現実を知りながら、 それでも夜空を見上げられる人なのかもしれない。 盤は利用するもの 盤上はある程度の安全は保証されているから、仕組みそのものは利用すべきかな 社会は敵ではない。組織も悪ではない。 生活を守るためには必要な仕組みだ。 だから利用すればいい。 でも自分の価値まで預けてはいけない。 盤は生活を守る場所。人生そのものではない。もし盤の外に何も持っていなければ、 盤を失った瞬間、自分まで失ってしまう。 だから本を読む。芸術に触れる。 好きな人と笑う。夜空を見る。 何気ない雨の日を好きだと思う。 そういう時間は盤の外にあるもう一つの人生 を育ててくれる。 役に立たないものが人を支える 社会は、役に立つことを評価する。 でも人を最後まで支えるのは、 案外、役に立たないものだったりする。 亡くなる直前に思い出すのは、売上や肩書きではなく、誰かと見た星空だったり、 愛された記憶だったりする。 役に立たないものを切り捨てた瞬間、人は人間であることまで失ってしまう 人は盤の上で働き、現実を生きる。 それは必要なことだ。 でもその現実だけで自分を定義してしまえば、人はいつか星を見失う。 だから必要なのは、盤を降りることではない。 盤を利用しながら、心のどこかにお星さまの街 を持ち続けること。 そこは成果も評価も届かない場所。 誰にも奪われない、自分だけの世界。 一見すると何の役にも立たないことこそが、人間をただの駒ではなく、一人の人間として生かし続ける。 あなたは最近、星を見上げましたか。 鳳条 暦 ?
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