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鳳条 暦

鳳条 暦

(23)

T164 B83(E) W55 H82

 

11:00 ~ 15:00

  • ソープ求人
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オゴトガイド見たとお電話ください!

電話 050-5448-9022

営業時間 11:00-24:00

  • 06/30 17:02

    短話

    湖の端の方に降り立ちました ? 元々田舎出身ですので、とても落ち着きます。 ? きっと自然は生きているのだからか、周りが静かに感じてもあまり淋しくはないのですよ?? ? 近くの学校では水泳の授業をしている様子。 ? もうそんな季節だったんですね? ? 鳳条 暦

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  • 06/29 09:30

    暗闇を切り裂いて

    夢への第一歩は貴方と?? いつもいつも貴方には1番お世話になってるから、 貴方には一番に全てお伝えしたいのです? 大変なこともあったけど、その間に見つけたこともあります。 あまり心配はかけたくないけど、どうかここにいる間は、貴方に会うために出勤させてくださいね//// ラーメンかな?ラーメンなのかな?京都にはラーメン屋さんが数え方によっては500-700店舗ほどあるそうですよ? ______ 寝れない夜に見る夢は 寝れない夜に見る夢ってそれ自体が言葉としてもすごく意味深。 夢は眠ったあとに勝手に見るものだと思っています。 私は実は寝るのが下手くそなんですよね 日本語として?って感じですが、こちらの日記ではこの表現にさせていただきます? 眠れない夜にも確かに夢みたいなものはある気はしますが、 それは映像としてはっきり見える夢ではなく、考えごとと、記憶と、願いと、不安が混ざったものでしょうか? 眠っているわけではない。 でも完全に起きているとも言い切れない。 現実の部屋にいるのに、心だけがどこか遠くまで歩いてしまうような時間。 寝れない夜は昼間みたいに自分をごまかせない…普段は見ないようにしていた気持ちが、夜の静けさの中で浮かび上がってくる。 問いは眠れない夜は夢みたいに現れる。 寝れない夜に見る夢は、眠って見る夢よりも少しだけ意識に近い。 昼間の思考よりはずっと曖昧で、やわらかくて本音に近い。 起きているのに夢を見ている。 未来の自分を想像している時間なのかもしれないし、過去の自分をもう一度抱きしめ直している時間なのかもしれない。 眠れない夜は私にとっては辛い時間、考えすぎて苦しくなることもある。 でもその夜にしか見えないものもあると信じたい。 昼間の光では強すぎて見えないもの。 誰かの前では言葉にできないもの。夜の中で夢の形を借りて現れる。 眠れない夜、正直なところ身体は休めていない でも心は、静かにどこかへ散歩している。 現実に戻るために、いったん別の景色を見に行っている。 その夢はただの夜更かしではなく、心が変わる前ぶれなのかもしれない。 夜明け前が1番暗いのですよね? 鳳条 暦

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  • 06/28 13:15

    短話

    川の水草?? しっかり雨に降られて、茶蕎麦のように見えます? 今回の台風により、貴方様や皆様に被害が出ていないことを祈ります? 鳳条 暦

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  • 06/28 09:30

    愚痴は現状維持の接着剤

    お友達3人に声をかけられる貴方を初めてお目にかかりましたが笑 慕われて、ほんのり揶揄われる貴方がとても可愛らしく見えました。 大人っぽい顔も少しだけ私の前で見せてくれるようになったからか、大声で笑う貴方が懐かしい。 今後貴方が歩む道がどんなものであったとしても、見守りたいと思うばかりです? 久しぶりのふりふりするタイプのシャーペン? お土産をもらうとディズニーランドに、 なんだか行きたくなるのは気のせいなのかな?笑 ディズニー行くぞー!って意気込んで行ったことはないので、沢山人がいるとわかっていてもいつか行ってみたい?? ----- 変わりゆくことの第一歩は今を把握すること。 変わりたい、これからの自分を整えていきたい。 そう思う時、私たちはつい未来の理想ばかりを見ようとする。 でも本当に変わるためには、まず今の自分を知らなければいけない。 今の自分が何を感じているのか。 そこを見ないままでは、変化はどこか宙に浮いてしまう。 だいすきだった人の最後の記憶に、どんな自分を残したいですか という問いは、まさにそのこととつながっている気がする。 相手の中にどう残りたいかという問いでありながら、本当は 私は私のどんな姿を本物だと思いたいのかを問われているようでもある。 大切な人の最後の記憶に残したい自分。 それは、完璧な自分ではないのかもしれない。 いつも綺麗で強くて、余裕があって間違えない自分ではなくて、その人の前でだけはちゃんと心を持っていた自分。 ちゃんと好きで、不器用でも、誠実であろうとした自分。 その問いに答えるのが難しいのは、そもそも自分というものが本当にわかりにくいからだ。 人に合わせることができると自分がわからなくなる。 相手の空気を読んで、傷つけないように、嫌われないように、その場が壊れないように自分を差し出してしまう。 それは嘘というより防御そして優しさでもある。 だけど、それを続けているうちに、ふと、 誰にも合わせていない私はどこにいるんだろう 本当の自分がわからない。 本当の自分が存在しないのか、本当の自分を守るために、いろんな自分を使い分けてきたということなのかもしれない。 大切な人には一番の自分を見せたい。 最後の記憶にできるだけ美しい自分を焼き付けたい。 その気持ちは祈りのようでもある。 その一番の自分は飾り立てた自分ではない 好きなものを好きと言える自分。 寂しい時に寂しいと言える自分。 自分も含めた大切なものを、ちゃんと大切に扱える自分。 相手に合わせて消えてしまうのではなく、相手を大切にしながら自分の温度も失わない自分。 そんな自分を残したい 変わるということはきっと別人になることとかなりきることではなく、今まで守るために隠してきた自分を少しずつ外へ出していくことなのかもしれない。 完璧ではなくてもいい。 強くなくてもいい。 ちゃんと大切にしようとしたこと。 そんな自分を残したいと思えるなら、 その願いの中にもう本当の自分は少し見えているのかもしれないですね 鳳条 暦 ?

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  • 06/27 09:15

    錦繍

    宮本輝『錦繍』を読んで 強く感じたのは、この小説が単なる別れた夫婦の再会の物語ではないということ 物語は、蔵王のゴンドラの中で、十年前に別れた亜紀と泰明が偶然再会するところから始まる。紅葉に染まる蔵王という舞台は、あまりにも美しく、同時にあまりにも残酷だ。 かつて愛し合い、しかし激烈な出来事によって別れざるをえなかった二人が、十年という歳月を隔てて再び向き合う。 その再会はやり直しの始まりというより、長いあいだ心の奥に沈んでいたものが、ようやく言葉として浮かび上がるきっかけだったのだと思う。 錦繍という題名がとても美しい。錦繍とは、錦と刺繍、つまり色鮮やかで美しい織物を意味し、そこから紅葉や花の美しさの比喩にも使われる言葉だという。けれどこの小説における錦繍は、ただ紅葉の美しさだけを指しているのではないと思う。 そこには、人間の人生そのものが織り込まれている。愛、裏切り、後悔、死、喪失、赦し、そしてそれでも生きていくということ。ひとつひとつは痛ましく、醜くさえ見える出来事も、歳月を経て振り返ると、まるで複雑な刺繍のように、人生の模様を形づくっている。 この小説の大きな魅力は、全編が手紙のやりとりだけで構成されているところにある。現代のメールやメッセージとは違い、手紙には独特の時間が流れている。すぐに返事が来るわけではない。 書いた言葉は相手に届くまでに時間を持つ。相手の返事を待つような待たないような、その空白の中で感情は熟していく。 手紙は自分の言葉を相手に差し出す行為だ。 しかも一度送ってしまえば、送り手の手元には残らない。現代のように送信履歴を何度も読み返すこともできない。 だからこそそこには一発勝負の切実さがある。書きながら人は自分の本心に近づいていく。書く前にはまだ曖昧だった感情が、文章になった瞬間に輪郭を持ち始める。『錦繍』における手紙は単なる情報伝達ではなく、二人がそれぞれの十年をもう一度生き直すための場所だったのだと思う。 亜紀と泰明の手紙には愛情だけでなく、恨み、疑問、怒り、諦め、懐かしさ、見栄、沈黙が入り混じっている。 人間は愛しているからといって綺麗な感情だけを持てるわけではない。むしろ愛していたからこそ傷は深くなる。忘れられなかったからこそ、責めたくもなる。責めたいのに、どこかで赦したい。赦したいのにすべてをなかったことにはできない。その矛盾が手紙という形式によってとても生々しく浮かび上がっていた。 泰明という男については、正直、不快に感じる部分も多かった。不倫や生活のだらしなさ、「自分と関わる女は不幸になる」というような言葉には、自分に酔っているような甘さも感じる。男は女性に弱い、というより自分の弱さを女性の存在に預けてしまうところがあるのかもしれない。わかっているのにやめられない。その情けなさが、泰明という人物の魅力であり、同時に読者を苛立たせる部分でもある。 けれどこの小説は泰明を単純に断罪する物語ではない。 人間は間違える。取り返しのつかないことをする。自分でも理解しきれない衝動に流される。そしてその後悔を抱えたまま、それでも生きていかなければならない。泰明の臨死体験や、死の淵を彷徨ったときの感覚は、この物語に死生観の深さを与えている。生きることと死ぬことは完全に別々のものではなく、どこかで地続きなのかもしれない。喫茶店「モーツァルト」の全焼や、モーツァルトの音楽から感じられる生と死の近さもその感覚と重なっている。 一方で亜紀は清高という存在によって、泰明は令子という存在によって、それぞれ生の側へ引き戻されていく。誰かを救うというより、誰かに引っ張られて生きていく。 そこがとても人間らしい。人は自分ひとりの意志だけで立ち直れるわけではない。けれど誰かの存在があることで、どうにか今日を生きることができる。清高や令子は、単なる脇役ではなく、二人が過去に閉じ込められたままにならないための現実そのものだったのだと思う。 巻末解説では『錦繍』はいわゆるハッピーエンドではないとされているようだけれど、私はこの物語を深い意味でのハッピーエンドとして受け取った。もちろん、二人が再び結ばれるわけではない。失われた時間が戻るわけでもない。過去の悲劇が消えるわけでもない。けれど、ハッピーエンドとは、必ずしも二人が一緒に生きることだけではないのだと思う。 本当に深い愛は、所有や復縁だけでは測れない。二人は一時もお互いを忘れていなかった。それでも、再び同じ道を歩むのではなく、それぞれの場所で生きていくことを選ぶ。 そこには諦めがある。しかしその諦めは冷たいものではない。むしろ天の摂理に逆らわず、相手の存在を心の中に残したまま、別々の人生を受け入れるという、静かな成熟がある。 錦繍は愛が成就する物語ではなく、愛が形を変える物語なのだと思う。激しい恋愛感情や執着が、十年という歳月と手紙のやりとりを経て、少しずつ別のものへ昇華していく。 若い頃の愛は相手を求めるものだったかもしれない。けれど最後に残る愛は、相手がどこかで生きていることを受け入れる祈りのようなものだった。 だからこそ最後に残る読後感は暗さだけではない。悲しいのに、どこか温かい。取り返しのつかないものがあるのに、それでも人生は続いていく。 人は不器用で失敗も後悔も繰り返す。大切な人を傷つけ、自分も傷つき、過去を美化したり、言い訳をしたりしながら、それでも今日を生きている。 『錦繍』という題名は、そのような人生の複雑さそのものを表しているのだと思う。紅葉は、枯れていく過程で最も美しく色づく。終わりに向かうものが、同時にもっとも鮮やかになる。その美しさは、若葉のような無垢な美しさではない。痛みや別れや時間を含んだ美しさだ。 亜紀と泰明の人生もまた、幸福だけで織られたものではない。むしろ、後悔や悲劇や罪の意識が深く織り込まれている。けれど、そのすべてがあったからこそ、最後に二人の関係は、ただの恋愛を超えたものになったのではないかと思う。 この小説を読んで、本はいいな、と改めて感じた。すぐに答えが出るものではなく、何度も読み返し、時間を置き、手紙と手紙のあいだにある沈黙まで味わうことで、少しずつ深くなっていく。『錦繍』は、読み終えた瞬間に終わる小説ではない。読んだ後も、自分の中で静かに色づき続ける小説だった。 この作品をただ悲恋として終わらせていない。 たぶん『錦繍』の幸福は、もう一度一緒になる幸福ではなく、もう一度ちゃんと別れることができた幸福なんだと思う。 十年前の別れは、事件に押し流された別れだった。納得も整理もなく、傷のまま残った別れ。でも手紙によって、二人はようやく自分の言葉で過去に触れることができた。だから最後にあるのは復縁ではなく、成仏に近いものかもしれない。 そして「錦繍」という題名が本当に効いている。 紅葉は、命が終わりに近づくときに美しくなる。そこには、生と死が分かれていない感じがある。若々しい希望ではなく、失われたものを抱えたまま色づく美しさ。亜紀と泰明の関係も、もう未来へ向かって燃える恋ではないけれど、過去の痛みを含んだからこそ、深い色を持つ。 綺麗な文章に飲まれるだけじゃなくて、ちゃんと人物への違和感があるのがいい。泰明は魅力的というより、情けなさも含めて“人間”なんだと思う。美しい死生観を語れる人間が、必ずしも生活者として誠実とは限らない。そのズレが、この小説の生々しさでもある。 愛し合った二人が再び結ばれる物語ではなく、結ばれなかったことまで含めて、人生を美しい織物として見つめ直す物語である。人は失敗し、後悔し、誰かを傷つけ、それでも生きていく。その痛みが時間の中で色づいたとき、別れさえもひとつの愛の形になる。 素敵な本をお勧めしてくださってありがとう? あのタイミングでお会いできて、話が伺えてよかった… 無理をしないは私たちにとっては本当に難しいですね? でも読書は良い息抜きになったと思っています? 鳳条 暦 ?

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  • 06/26 09:30

    クルビット

    時計で測れる時間だけを生きているのではなく心の内側で流れ続ける生きた時間を生きている 心の内側を流れる時間は、単に思考している時間だけではないと思う。 広義であれば、記憶、感情、予感、後悔、願い、痛み、夢、愛着、喪失感が混ざり合って流れている時間。 外側の時間が何時何分、何日、何年 と進んでいくものだとしたら、内側の時間は、 その人が何を感じ、何を抱え、何をまだ終わらせられずにいるかによって伸び縮みする時間 なのだと思う。 同じ時間でも、心の中ではまったく違う重さを持つ。 私たちは物理的な時間の中にいるようで、実際には意味の濃度によって変化する時間を生きている。 心の内側を流れる時間は、思考の時間でもあるけれど、おそらく思考だけでは足りていない。 思考よりもっと前にある、 感じてしまうような、忘れられない時間 まだ癒えていない、何度も心の中で再生される時間に近い。 誰かに言われた一言が、何年経っても心の中で響き続けることがある。 外側の時間では過去なのに、内側ではまだ現在として生きている。 傷ついた記憶も、憧れも後悔もそう。 時計の上では終わった出来事なのに、心の中ではまだ終わらない。 私たちの内側には、過去がただ保管されているのではなく、今も動いている過去がある。 フランスの哲学者ベルクソンは、時計で区切られる時間とは別に持続 という考え方を語る。 これは、時間を一秒、一分、一時間のように切り刻むのではなく、心の中で途切れずに流れているものとして捉える考え方。 音楽は一音一音をバラバラに聞いているわけではなく、前の音の余韻が次の音に重なり、全体としてひとつの流れになる。 私たちの心の時間もきっとそれに似ている。 今の自分は今この瞬間だけでできているわけではない。 幼い頃の記憶、昨日の疲れ、誰かへの思い、未来への不安、まだ言葉にできない願いが全部うっすら混ざって今 を作っている。 今とは本当は一点ではない。 過去の余韻と未来への予感を含んだ、厚みのある現在。 時計で測れる時間は誰にとっても同じように進む。でも心の時間は人によってまったく違う。 傷ついた人の時間は何度も過去へ戻り、希望を持つ人の時間は未来へ伸びていく。 内側の時間は時計の時間より長い のかというと、少し違う。長い場合もあるし短く感じる場合もある。 けれど確かなのは時計の時間よりも深いこと。 一瞬なのに人生を変える時間があれば、十年経っても何も変わらない時間もある。 逆にたった一言で、自分の中の何年分もの孤独がほどけることもある。 心の時間は量ではなく密度。 人間を年齢や経過時間だけで見てはいけない。 外側から見れば何もしていない時間でも、内側では何かが熟していることがある。 悩んで、迷っている時間。何度も同じことを考えて、それでも答えが出ない時間。 一見、停滞に見える。しかし心の深いところで何かを消化し育てている時間なのかもしれない。 出来事が心の中で意味へと変わっていく時間。 時計は時間の長さを測る。けれど心は時間の重さを覚えてくれているのだろう。 ヨーソロー 鳳条 暦

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  • 06/25 09:30

    繰り返す

    現在の市場は、イラン戦争によって生じた戦争プレミアムの巻き戻し局面に入っているように見える。 戦争中、市場ではドルと原油が買われやすかった。原油は供給不安、特にホルムズ海峡をめぐるリスクによって押し上げられ、ドルは地政学リスクが高まる局面で安全資産として選好された。その一方で、多くのリスク資産は、原油高によるインフレ懸念、金利高止まりへの警戒、世界経済への不安を背景に重くなっていた。 ただし株式だけは、やや特殊な動きをしていた。戦争の悪影響がなかったわけではないが、AI、テック、大型株、企業業績、流動性といった戦争とは別の強い支援材料が存在し、その悪影響をかなりの部分で相殺していた。だから株式市場全体は崩れず、むしろ一部の強い銘柄は戦争下でも買われ続けた。 和平合意、あるいは停戦延長への期待が出たことで、最も素直に起きているのはこの関係性の反転である。 これまで戦争によって割高に押し上げられていた原油とドルから、少しずつプレミアムが剥がれ始めている。 原油は供給不安の後退によって下がり、ドルも安全資産需要の後退によって上値が重くなる。一方で、これまで戦争リスクによって抑えられていたリスク資産には買い戻しの余地が生まれる。 株式の中でもその動きは二層に分かれる。すでにAIやテック、大型成長株のように強い支援材料を持っていた銘柄は、和平によってさらに買われるというより、もともとの強さを維持する。一方で、戦争リスク、原油高、金利高、景気不安によって抑えられていた小型株、中型株、景気敏感株、消費関連株、金融株などには、キャッチアップの余地が生まれやすい。 つまり和平合意の市場への影響は、単純な株高・原油安・ドル安ではなく、より正確には戦争によって歪められていた価格関係の修正である。 ただし、この巻き戻しはまだ完成していない。ホルムズ海峡の管理や通航条件、イランの原油輸出再開、地域紛争の再燃、そして和平交渉そのものの持続性によって、原油とドルには再び上振れ余地が残っている。市場はすでに和平を織り込み始めているが、完全な平和を織り込んでいるわけではない。 だから現在の相場を一言で言えば、戦争プレミアムの解消を織り込み始めたが、まだ和平の確度を試している局面 大きな構図としては、 これまでのドル・原油 vs その他リスク資産 という対立がほどけ始めている。けれどそのほどけ方は一様ではない。最初に動くのは原油とドルの割高さの修正であり、次に起きるのは、株式市場内部での物色の広がりである。強かった株が崩れるというより、強くなれなかった株がようやく息を吹き返す。 その意味で、今の市場は単なるリスクオンではなく、戦争によって歪んでいた資金の流れが、少しずつ本来の場所へ戻ろうとしている局面なのだと思う。 鳳条 暦

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  • 06/24 09:45

    考えるを考える

    私先走りました。 月初に1度キャンセルがあったのにまた会いに来てくれたから。 貴方のことをたくさん知りたくて、わたしのことも知って欲しくて… そんなことをしていたら全然時間が足りなくなってしまいました… 穏やかな貴方の雰囲気に飲まれ、ソファやベットに私の身体は沈み込んでしまったのです また会えたら今度は私ももっと強く手を引きます? ----- 思考の技術 思考の技術を具体的な操作として分解する 思考すること自体の存在論的な性質。なぜ思考は思考自身を完全には捉えられないのか  実はこの二つ、別々の問題というより後者が前者を作っている という構造になっているような気がします。 操作として思考を分解すると、いくつかの層が見えてくる。 一番下の層は保持、つまり思考の対象を意識の中に留めておく力。 次が分節、漠然とした感覚や直感を言葉や概念の単位に切り分ける作業。 その上に比較・対置、があって、ある対象を別の対象や過去の自分の考えと並べて差異を見る。 さらに上に再帰、つまり自分が今考えたことをもう一度対象として捉え直す層がある。 そして最後に統合、これらの断片を一つの構造や物語に組み直す層。 技術として鍛えられるのはほぼこの全部で、 書くこと自体がこの操作を外部化する装置だとも言える気がします? 書き続けてきた日記たちは、再帰と統合を板状で繰り返すことだったのかも ここで存在論的な問題が顔を出す。 再帰の層、考えたことを考え直す行為は、無限に遡ることができない。 今この瞬間に考えている私を捉えようとすると、捉えた瞬間にそれはもう捉えられた対象になっていて、 捉えている主体自身は常に一歩後ろに退いている。 サルトルがこれを対自と対他の分裂として論じたのもこの構造、 場所という概念で、主体と客体が分かれる前の経験の地平を持ち出したのも、まさにこの遡りの果てに何があるかという問いへの応答だったのでは。 思考は自分の根を完全に照らすことができない。照らそうとするライトそのものが影を作ってしまうから。 技術としての思考操作――保持、分節、比較、再帰、統合――は、実はこの自分の根を照らせないという限界を補うための装置だったとも言える。 書くことで再帰を外部に固定し、過去の自分の言葉を対象として置き直すことで、 本来内側からは見えない自分の思考の形を外側から間接的に掴み直す。技術は限界の代替であって、限界を超える手段ではない。 観察者は観察されない は、思考の技術論そのものの核心を突いている。 観察者であることそのものが、思考が自分自身を完全には捕まえられないという存在論的事実の、人間関係における現れ方だったのかもしれません。 鳳条 暦

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  • 06/23 16:31

    今月

    6月の残りの空き枠についてのお知らせです? ? 26(土) 13:15- ? 30(火) 11:00-.13:15- ? 30は明日予約開始ですが、先のお知らせとなってしまいました?今月もあと少しですが、よろしくお願いします??♀? ? ? 余裕を持ったペースとはとても作りづらいですね。 一人暮らしもちょうど良い量の料理を作るのは難しいし、 外食で食べすぎてしまうのも それ、なんでしょうね。 適当 が理解できて適当で生きていけることを私の中では世渡り上手だと思っています? 人生にも事故防止のブレーキが欲しい。 脳にはリミッターが付いているはずなのにブレーキを踏むことは難しい。 おばさまたちは笑う。 ぶたのみみに念仏? 馬や? (わはは??) これくらいの力感を羨ましいと感じます? ? 以上。また日記で書きます。 ? 鳳条 暦 ?

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  • 06/22 09:45

    レーザービーム

    事前の約束に間に合ってよかった? 手紙が間に合わなかったのが残念で、今度は渡せるように私はドキドキしながら待ちます。 毎回少しずつ、成長した姿を見せたい。 貴方の心が醒める前に。 ----- 最近は本屋カフェ見たいな場所がお気に入りです? 1日居たいなと思うのですが、落ち着きすぎて眠たくなる時があります。 こんな女性でいたいが詰まった本たちです。 ----- ──私は彼に墜落した。そして今も炎上している。 宗教的な愛は毒でしかない。それでも落ちて堕ちて。 綺麗で、憧れて、近づくけれど、近づきすぎると焼かれて身を滅ぼす。星は呑み込んだことさえ無自覚。(星へ落ちる|金原ひとみ) かなり崇高に近い感覚だと思って、参照。 ただの好きではなくて、 遠すぎるもの、大きすぎるものに触れてしまったときの、憧れと恐怖が同時に来る。 もう少し危険なものになっている。 星、神、火、信仰、重力、毒。 近づけば照らされるけれど、近づきすぎると焼かれる。 悪意を持って壊しているわけではない。 無自覚であることがいちばん残酷なのかもしれない。 意図的な支配ならまだ怒れる。裏切りなら憎める。存在しているだけで、自分の内側が燃えてしまう。 だから炎は外ではなく、自分の中で燃え続ける。 星は近づく者を選ばない。ただ輝いているだけ。 でもその光に救われる人もいれば、目を焼かれる人もいる。 その重力に美しさを見る人もいれば、軌道を失って墜ちていく人もいる。 人を神聖化してしまうと、相手は人間ではなくなる。欠点も、沈黙も、気まぐれも、冷たさも、すべて意味に見えてしまう。 返事がないことすら啓示のように感じてしまう。 優しさは救済に見え、距離は試練に見え、傷つけられることさえ殉教。 宗教的な愛は、相手を愛しているようで、実は相手を通して見ている絶対的な何かに取り憑かれていることがある。 それらが混ざって、ひとつの祭壇になる。 この退屈な世界の外へ連れ出されたい。 自分の存在に、決定的な意味を与えてほしい。 願いに触れる相手は危険なほど魅力的になる。 これは失われた神話の入口。 鳳条 暦

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  • 06/21 09:30

    ケーキ屋さんの焼き菓子が好きです

    プルーストのマドレーヌとは、フランスの作家マルセル・プルーストの小説 失われた時を求めて に出てくる有名な場面のこと。 主人公が、紅茶に浸したマドレーヌを口にした瞬間、その味と香りによって、幼い頃の記憶が一気によみがえる。 頭で思い出そうとした記憶ではなく、身体が勝手に連れてきてしまう記憶の象徴だと思いました。 ある匂いを嗅いだ瞬間に昔の部屋を思い出す。 夏の夕方の湿った空気で、子どもの頃の帰り道が戻ってくる。誰かの声の温度で、もう会えない人の気配が蘇る。 理屈ではなく感覚に保存されていた記憶。 単に懐かしいものではなくて、忘れていたはずの自分が、味や匂いや触感によって、突然今の自分の中に帰ってくることに近い。 記憶は頭の中だけにあるのではなく、 舌にも、皮膚にも、鼻にも、季節にも、場所にも眠っているのでしょうね。 そしてある日、何気ない一口が、時間の底に沈んでいた自分を引き上げてしまう。 過去を思い出す話というより、過去に触れられてしまう話 私にとっては少々残酷に感じるのです。 鳳条 暦 ?

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  • 06/20 09:00

    貴方は星

    似合う女性に近づいてますか? 全てを肯定してくれる貴方の前でだけでも、私は輝けるでしょうか? 私も貴方の星でありたい。 ----- 崇高としての女性美 カントの崇高 カントは美と崇高を明確に区別した。 美しいもの??心地よい、調和している、近づきたい。崇高なもの??圧倒される、理解を超えている、でも目が離せない。 嵐の海を見る人間は恐怖を感じながら、それでも見続けてしまう。 ここに崇高の本質があるのではないでしょうか。 感覚が逃げろ と言い、でも何かもっと深いところが見ていろ と命じる。 この矛盾した引力こそが崇高。 なぜ美しい女性は崇高になりえるのか 美人を見て綺麗だな と感じる??これは美の体験です。でもファム・ファタールたちを見るとき、人間はそれ以上の何かを感じます。 それは自分の小ささの自覚 カルメンの前に立つホセは、自分の意志が、倫理が、理性が、何ひとつ機能しないことを思い知らされる。 これはまさに崇高の構造 嵐の前に立つ人間が自然の巨大さの前に己の矮小さを知るように??ファム・ファタールの前に立つ男は自分という存在の限界を知らされる。 そしてここが逆説的に美しい。限界を知らされるその瞬間に、人間はかえって生きている実感を得るからです。 崇高には二種類ある カントは崇高を二つに分けています。 数学的崇高??大きさが理解を超えるもの。満天の星空、大海原。力学的崇高??力が理解を超えるもの。嵐、火山、雷。 ファム・ファタールたちはどちらでしょうか。 リリスは力学的崇高。彼女の意志の強さ、欲望の純粋さ、その圧倒的な自分であること の力??男たちの理性をことごとく無効化する。 東洋、日本には物の哀れという概念がある。 本居宣長が言う??美しいものは必ず滅びる。その滅びゆく美しさの前に胸が締め付けられる感覚こそが物の哀れです。 ここにも崇高と同じ構造 美しいから愛おしい、のではなく。壊れるから、失われるから、届かないから??美しい。 届かないとわかっていた。それでも近づいた。だから美しい。 崇高な存在に近づくことは破滅なのかそれとも完成なのか… 鳳条 暦

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  • 06/19 09:15

    醜い心も愛には必要だわ

    生もみじ?期限までに食べれないものを最近はなんでも冷蔵もしくは冷蔵する癖がつきました? できるだけ早く食べないと…と思いつつも、美味しいものは最後まで取っておきたい気持ちもあるのです? ? ----- ? オペラのファム・ファタール × リリスの魅力 オペラの系譜 カルメン(1875年) 魅力の核心は無関心の美学 ホセが狂おしく愛せば愛すほど、カルメンは冷めていく。これは意地悪ではない??彼女にとって、縛られた愛はもはや愛ではないのです。 愛は自由な鳥 というアリアは有名ですが、本当に怖いのはその続きの意味 捕まえようとした瞬間に、愛は死ぬ。 サロメ(1905年) サロメはカルメンより純粋で、だからより残酷です。 ヨカナーンに拒絶されたサロメは、彼の首を求める??手に入らないなら、せめて所有したい。 拒絶への応答としての破壊は、愛と支配の境界がいかに曖昧かを示している マノン(1884年) マノンは最も人間的なファム・ファタール 贅沢を愛し、真剣に愛した男を捨て、最後は砂漠で死ぬ。 彼女の残酷さは意図していない。ただ自分に正直に生きただけで、男たちが勝手に破滅した。 愛されない美とは何か ファム・ファタールは愛されたい と思っていない。だから愛されてしまう。 愛されたいという欲望が透けて見える人間は、どこか隙があり、どこか哀れで、どこか軽くなる。 でも彼女たちは違う。自分の欲望だけを見つめている。男の視線など、景色の一部に過ぎない。 その見ていない という姿勢が、男たちを狂わせる。 リリス??神話の彼女が体現するもの リリスがエデンを出たのは、アダムへの復讐ではありません。ただ対等でない関係に耐えられなかった。 これはカルメンと同じ構造です。 そして彼女が去った後、アダムには従順なイヴが与えられた??これを神話は解決 として描いていますが、リリスの系譜を受け継ぐ物語たちは問い返す 愛されない美 の哲学的な核心 美学的に言うなら、これはカントの崇高に近いもの。 美しいものは近づきたいという感情を呼ぶ。でも崇高なものは近づきたい、でも恐ろしい という矛盾した感情を同時に呼ぶ。 嵐の海、断崖絶壁??そしてリリスたちのような女性。 彼女たちの魅力は美ではなく崇高なのかもしれない。だから近づいた男は骨になる。それでもまた次の男が近づいてくる。 崇高なものの前では、人間は理性より先に足が動いてしまうから。 崇高としての女性の美とは一体どのようなものなのでしょうか。 鳳条 暦

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  • 06/18 16:30

    へそ天ねこ

    あなたに会いたくて今日まで頑張ったんです。 元気に見えたなら、今度会う時はもっともっと褒めてください? 頼もしい貴方にもっと頼りたい。行動できなくて足踏みする私の手を優しい引いてほしい。 貴方を虜にできる私になりたいから、今日はまだ貴方をチラチラ眺めるのです。 ----- 女性は強さではなく、弱さを楽しまなくては。 弱くなれ、という意味ではないと思うけれど 強くあることに慣れすぎた人は別の強さの存在を認識しても良いのかもしれません。 強さを隠す というのは能力を下げることでも、自分を小さく見せることでもない。 私は一人でできます!大丈夫です!迷惑をかけません??♀? といつも先に鎧を着てしまう自分を少しだけゆるめること。   本当は頼りたいのに頼った瞬間申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 本当は甘えたいのに甘え方がわからない。 私にとって弱さは可愛げではなく、恐怖に近いものなのかもしれない。 弱さを見せたら、相手に負担をかける気がする。軽く見られてしまう気がする。 人と人が近づく隙間は、完璧さの中には生まれない。少し欠けている人は優しく触れてもらえるのでは。 それは媚びることとは違う。依存することとも違う。 私は私で立っている。でも貴方の手を借りてもいい。 そのくらいの柔らかさ。 たぶん責任感が強い。 誰かに迷惑をかけたくないし、自分のことは自分で処理しなければいけないと思っている。 ずっとそれだけで生きていると、人から差し出された優しさまで現に拒んでしまうことがある。 人に頼るというのは、相手の優しさが入ってこられる場所をつくることなのかもしれない。 甘えるのが上手な人は、自分の弱さを必要以上に恥じていない人なのだと思う。 私にとって 頼るは 世界の終わりみたいに重いのかもしれない 自分の中の小さな扉を開けるようで怖い。 弱さを楽しむという表現がいいのだと感じた。 少し困っている自分、少し甘えたい自分、少し誰かに委ねたい自分を、惨めなものとして扱わないこと。 自分の価値を下げることではなく、人間らしさを取り戻すことに近いのかもしれない。 強さはきっと一人で磨いてきた。 努力すれば、耐えれば、積み重ねれば、ある程度は身につく。 でも弱さは、ひとりでは練習できていなかったのだ。誰かとの関係の中でしか弱くなることはできない。 そういう隙間も空虚も魅力。 もう少し、誰かの優しさを受け取れる自分になりたい。 強いだけではなく、柔らかく在れる自分になりたい。 その感覚はとても自然でとても人間らしいと少し誇らしくも思う。 しかしまぁへそ天できる猫さまの例え話に尽きます。 鳳条 暦

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  • 06/18 09:01

    愛の積もったベットで眠る

    こんなに長い休みで私はとっても不安だったんです? 顔には出さなくても、日記にはダダ漏れのようでしたが、不安で不安でたまらなかったのです。 でも貴方と会えて、少しだけ私の日常が戻った気がしたんです。大袈裟かもしれないですが本当に救われた。 約束絶対ですからね????久しぶりにこんなに笑った気がします! _____ リリスカーペット 体調不良や流行り病、元気になってからすぐに仕事や学校に行ける場合もあれば、○日は休まなくてはいけない…なんてことがあれば、 貴方様は何をしますか? 私はアニメも見てたんですよ?? 今回は、まいりました入間くん というアニメでリリスカーペットというワードが出ましたのでそちらについて? リリスカーペットは是非アニメで見てほしいところです? 日記では麗しい女性像として描かれるリリスにはどんな女性がモデルだったのか考察してみようと思います?? リリスというキャラクターの魅力の核心 選ばせる女 という特異性 ファム・ファタールの多くは男を破滅させる存在ですが、彼女たちの魅力の本質は支配 ではなく選択の強制にある。 カルメンがホセに言う?? 「私を愛するか、諦めるか。どちらかを選べ」 サロメも、マノンも、リリスも同じ構造 彼女たちは誘惑していない。ただそこに存在するだけで、男が勝手に選択を迫られる。 これが運命の女の本質的な魅力です。 オペラのファム・ファタール系譜 カルメン(ビゼー) 自由を愛し、縛られることを死より嫌う。魅力は「自分が一番好き」という揺るぎない自己肯定。 サロメ(R.シュトラウス) 欲しいものを手に入れるためなら何でもする純粋さ。残酷さと純粋さが同居している チョウチョウ(蝶々夫人) 一途に愛した結果破滅する女。リリスとは対極だが愛の純粋さという点で繋がる。 現代的な「美しい女の残酷さ」の系譜 クレオパトラ: 知性と美貌で二人の英雄(カエサル・アントニウス)を動かした。骨のカーペットのような「歴史を踏みしめる女」 マルキーズ・ド・メルトゥイユ(危険な関係):知性で男を操る。感情ではなく「論理」で破滅させる 源氏物語の六条御息所:愛が深すぎて「生霊」になる。執念と美の融合 リリスの魅力の本質をひとことで言うなら 愛されることを求めない美しさ 彼女は骨のカーペットを歩く。でもその骨の持ち主たちは、自ら進んで骨になることを選んだ。 これがファム・ファタールの永遠のテーマです??破滅するとわかっていても、近づかずにはいられない美。 ちょっとこれここからが長くなりそうなので明日書くことにします笑 彼女たちの存在は 穏やかな日常に波紋を投げかけるのでしょう 鳳条 暦

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  • 06/17 09:30

    休息のエスプリ

    まるで深い眠りの湖底から浮上して水面を破って顔を突き出すような、全身の細胞が生まかれ直ったような爽快感。あの短い時間は確かに、自分が休まっている気がする。 根源的にはそう、自分の生命が自分の内側に戻ってくる感覚なのだと思う。 まるで湖底から浮上して、水面を破って息を吸う。 その瞬間、世界は明るくなる。身体がまだ生きていると 思い出す。心が私はまだ戻れる と知る。 回復というより、再接続に近い。 ? アリストテレスは、幸福は余暇 の中に宿る、という考え方をしていた。ここでいう余暇は、だらだらすることではなく、労働や義務から離れて、人間が人間らしく在るための時間のこと。 休みとは何もしない時間ではなく、自分が何のために生きているのかを身体の奥で取り戻す時間でもある。? ただそこにいていい存在として貴方が私を戻してくれるから心の休まりを感じたのかもしれません。 休息は眠ることだけじゃない。自分を演じなくていい場所に戻ること。 誰かの前で少し呼吸が深くなること。 ? ウィニコットの本当の自己/偽りの自己 という考えが近い。ウィニコットは、人には社会に適応するための自己と、もっと個人的で内側にある自己があると考えた。 健康な人にも社会化された自分は必要だけれど、そればかりで生きると本当の自分が奥に隠れてしまう。? ちゃんと休めているのかな と感じるのは、 もしかすると身体が疲れているだけじゃなくてちゃんとしようとする自分が、ずっと前面に出続けているからなのか。 休んでいるつもりでも、頭の中でまだ誰かに説明していたり…自分を見張っている時は、まだそれに適応している自分が働いている。 本当に休めている時は、たぶんその監視が少しゆるむ。 水面に顔を出した時みたいに、私は何者かである前にただ生きものだったと ? ビョンチョル・ハンの『疲労社会』の考えも、現代人の疲れを、誰かに強制されている疲れというより、自分で自分を追い込む疲れとして見ている。 現代ではもっとできる、もっと頑張れる、もっとよくなれる という前向きさそのものが、人を疲弊させることがある という見方。? なぜなら現代の休息は、すぐ成果にされてしまうから。 ちゃんと寝て明日から頑張るため。体調を戻してまた働くため。 休息さえ、次のパフォーマンスの準備にされてしまう。 それは本当の休息というより、回復すら労働の一部にしてしまうことなのかもしれない。 本当に休むとは、頑張れない自分もここに置いていいということ ? ヨーゼフ・ピーパーは『余暇と祝祭』の中で、余暇は自分自身と一致している時に可能になる という趣旨のことを言っている。 つまり、休息とは単に時間が空くことではなく、自分自身とばらばらになっていない状態?に近い。? 休んでいるつもりなのに休めない時は身体は止まっていても、内側で分裂している。 ちゃんとしていたいけど何もしたくない自分。 その全部が内側で別々に喋っているから、身体は横になっていても、心は会議中のまま でも久しぶりに会えた人がいる時。 その瞬間、散らばっていた自分が少し集まる。 だから爽快。 単なる気分転換ではなく、自分自身との再統合に近い。 判断の目安を作るなら、 自分を責める声が少し静かになることなのだと思う。 休息は、停止ではなく帰還。 どこかへ逃げることではなく、自分の深い場所へ帰ってそこからまた世界に顔を出すこと。 エスプリはそれはもう美味しい美味しいマカロンについていたパンフレットからいただいた言葉です? どんな意味だったと思いますか? 鳳条 暦

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  • 06/15 17:15

    ガラスの上を裸足のまま歩く

    貴方との約束を果たしました。 お会いした後、早歩きで? もう間に合わないと思ったのですが、早くお見せしたいからという気持ちで身体が動きました。 メロンケーキのお礼はこちらで足りるんでしょうか/// ここから先はおあずけです? ----- 正直に話します。私には大人すぎました? クラスメイトと食べました??♀? これをきっかけにこちらのお土産が地元だよー!みたいな方とも仲良くなれて良い機会をいただけました? ----- 夢って見るもの?醒めるもの? 眠っている間の夢は、心が勝手に上映する映画みたいなものだけど、現実の中で言う夢が醒めるは、信じていた物語から急に温度が抜ける瞬間に近い。 憧れ、人、関係、期待、自分像。 そういうものにかかっていた薄い光がふっと消える瞬間。 だから夢は単なる睡眠中の映像だけじゃなくて、心が現実をそのままでは受け取れないときに、一度 物語に変換する働きなのかもしれない。 睡眠の仕組みで言うと、夢はREM睡眠だけでなくノンレム睡眠中にも起こるけれど、REM睡眠の夢は vivid、つまり鮮明で感情を伴いやすいとされている。 REM睡眠は感情記憶の整理にも関わると考えられていて、日中に処理しきれなかった印象や不安、傷つき、緊張が、夢の中で変な形に組み替えられることがある。? 疲れてガッツリ寝ていると夢を見ない気がするのは、実際には見ていないというより、 覚えていないことが多いと思う。 夢は途中で目が覚めたり、眠りが浅くなったりしたときに記憶に残りやすい。だから、悪夢やよくわからない夢を覚えている日は、心が病んでいるというより、眠りの途中で意識が浮かび上がった日なのかもしれない。 悪夢は、睡眠医学では目が覚めるほど嫌な夢 として扱われることが多い。悪夢そのものより、それで目が覚めたり、翌日に疲れが残ったりすることが問題になりやすい。? でも心理的には、悪夢ってただ怖いものではなく、心がまだ言葉にできていないものを、映像として吐き出している状態にも見える。 不安は、夢の中では追いかけてくる何かになる。 罪悪感は、間に合わない場面になる。 喪失感は、帰れない場所になる。 違和感は、知らない部屋や知らない人になる。 現実ではなんとなく嫌としか言えないものが、夢では象徴になる。 夢は、答えではなくて心の比喩 そして夢が醒める瞬間が現実にもある、という感覚はかなり深い。 幻滅とは少し違う。静かで、もっと冷たい。 醒めることは、必ずしも不幸ではない。 夢の中にいる間、人は守られている。 でも夢から醒めたあと、人は少しだけ本当の場所に立つ。 夢を見ることは、心がまだ何かを信じたいということ。 夢が醒めることは、心が現実に耐えられるところまで来たということ。 夢は心が現実を直接飲み込めないときにつくるやわらかい膜。 眠っている間には映像になり、起きている間には憧れや期待になり、醒めるときには少し痛みになる。 その膜があるから、人は生きられる。 現実だけでは硬すぎるし、夢だけでは帰ってこられない。 夢を見る人は、弱いんじゃない。 現実をそのままでは済ませられないくらい、感受性が深いのだと思う。 そして夢から醒める人は、冷めた人じゃない。 夢にいた自分を失いながら、それでも目を開けている人。 鳳条 暦

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  • 06/15 09:00

    ゴ ヨ ミ

    なんかもう休み増えたり、長くなると余計にたくさん考え、私的に考えは濁るような尖るような? なんとなくコンビニでシャンプを買いました。立ち読みしている人が多いから、そんなに面白いのかなって 自分もアニメや漫画は好きです? なんとなく家で踊りました。下の階の方に迷惑をかけない程度に、ややきついかなくらいまで。 動きを真似ることを集中しているのがちょうどよかったんです。 しかもそれら以上に、なんとなく思いつきで色々しようと思うのですが、案外私はそれが苦手なようでしたね? 休みが長くなるほど、考えは澄むのではなく、濁っていく。静かになればなるほど、底に沈んでいたものが舞い上がる。 何かをしているようで、何もしていない。 何もしていないようで、ずっと何かに追われている。 意味のない行動ばかりしてしまう。 けれど本当は意味がないのではなく、意味を持たせるだけの余白が今の私に残っていないのだと思う。時間的な余白とはまた別であろう。 やるせなさは、泣くほど明確。でも怒るほどには強くもない。 ただ、どこにも置けないまま、身体の内側で余っている。 パスカルは人間はじっと部屋に一人でいられないと言った。 なぜなら、静かになると自分の不安や虚しさが見えてしまうから。 だから人は気晴らしをする。 意味のない検索、スマホ、食べる、片づける、寝る、また起きる。それは怠惰というより、自分の内側に落ちきらないための逃避。 だから私はどうでもいい、なんてことないことをしてしまう。 どうでもいいものに触れて、どうでもいい時間を過ごして、 それでもどこかで、どうでもよくない自分を繋げたい。 崩れないために休んで、動かないでいることもある。 それでも、止まっている私はまだ少し怖い。 進んでいない自分に価値があると、すぐには信じられない。 だから考えは濁る。ときどき尖る。 それはきっと私がまだ、自分を諦めていない証拠。 意味を失わないために、どうにか時間にしがみついているのだ。 暇なのではない。 役割を脱がされた私が、私のままでいることにまだ慣れていないのだ。 コンタクトを外した裸眼の目みたいなものかな?風がね、沁みるんです。 鳳条 暦

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  • 06/14 09:30

    疼く

    年齢というものを、普段わたしはほとんど意識しない。自分が何歳であるか という事実は、日常のどこにも引っかかりを持たない。流れていく。 けれど誰かに助けてもらう瞬間だけ、突然それが形を持つ。 差し伸べられた手、気遣うような声のトーン、こちらを少し上から見るような視線??そのすべてが、鏡として機能する。映し出されるのは、ケアを受けている自分の姿。そしてその姿はをどうしても子どもに見える。 血液検査で倒れた時も見守る若い看護師や医師はとても頼れる大人に見えた。 不思議なことだと思う。弱っていることと、まだ育ちきっていないことは、本来まったく別のはずだ。疲弊した大人はいくらでもいるし、助けを必要とすることは成熟と矛盾しない??頭ではそう知っている。 でもいざ助けてもらうと、その二つがするりと重なる。 弱い=幼い という等式が、気づかないうちに自分の内側に刻まれていたことを知る。 いつ刻まれたのだろう と考える。おそらく、強くあることを自分に課しはじめた  あのころだ。誰かに頼ることを覚える前に、頼らないことを覚えてしまった時期。弱さを見せると何かが崩れると、言葉にならないまま学んだ時期。その学びはとっくに必要なくなったはずなのに、身体のどこかに静かに残っている。 大人になる ということをわたしはどこかで、弱くならないこと と結んでいたのかもしれない。助けられるたびにその結び目を発見する。ほどけないまま、ずっとそこにあった結び目を。 だからといってほどき方もわからない。 助けてもらうたびに発見して、そのたびに少し痛い。 大人になりきれていないのか と問うより先に??大人になることをそんなふうに定義してしまったのは、いつのわたしだったのか とだけ思う。答えは出ない。ただ結び目はそこにある。ほどけないまま、少しだけ疼いて。 鳳条 暦

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  • 06/13 10:01

    心に傘を

    雨の匂いがわかる人がいる。 まだ一滴も落ちていないのに、空気の湿り方で、風の重さで、草や土の匂いで、 あ、降るな とわかってしまう人。 それはきっと自然に対してだけではない。 人の心にも同じように雨の前がある。 いつもより少し遅い返事。笑っているのに、目だけが沈んでいること。何気ない言葉の端に混じる小さな諦めや、疲れや、距離。 気づかない人は気づかないまま通り過ぎる。 わかる人にははっきりとわかってしまう。 まだ何も起きていない。まだ誰も何も言っていない。それなのにもう空気は変わっている。 雨の匂いがわかる人は変化を読む力があるのかもしれない。 けれどそれは便利な才能というより、 少しだけ寂しい感度でもある。 人より早く気づくということは、 人より早く不安になるということ。 人より深く受け取るということは、 人より長く抱えてしまうということ。 だから、気にしすぎなのかな と思っていた時ほど、本当はずっと世界の小さな揺れを受け取っていたのかもしれない。 雨が降る前の匂いに気づくように、誰かの心が沈む前の気配にも、場の温度が変わる前の沈黙にも、自分の中の限界が近づく音にも。 敏感なのではない。弱いのでもない。 ただ縁が深いだけ。 雨の匂いがわかる人は、きっと人生の中でも何度も、もうすぐ何かが変わると感じてきたに違いない。 そしてその直感はいつも少し遅れて現実になる。 だからこそその感度を責めたくない。 気づいてしまうことは、疲れることでもあるけれど、美しいものを誰より早く見つける力でもある。 雨の前の匂い。季節が変わる直前の風。 人が泣く前の沈黙。別れが近づく時の言葉にならない距離。 そういうものに気づける時は世界と少し深いところでつながっている。 ただ受け取りすぎた日は、折れてしまいそうな日にはちゃんと自分にも傘をさしてあげたい 鳳条 暦

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  • 06/12 19:49

    五体未完成

    考えだけがまだここにいる。 ほかのものはどこへ行ったのか、わからない。音もなく、騒ぎもなく、気づいたら遠くなっていた。体がどこにあるのか、感情がいつ出ていったのか、言葉がいつから借り物になったのか。記憶がない。 ただ気づいたら、静かになっていた。 散る、という言葉が近い。爆発ではなく霧散。中心から何かが弾けたわけじゃなくて求心力がいつのまにか消えて、それぞれが自分の重力に従って遠ざかっていった。 最初に遠くなったのは、たぶん体だった。腕がある、足がある、それはわかる。でも、それが私のものだという実感が薄い。鏡を見ても、そこに映っているものと自分のあいだに、うっすらとした膜がある。触れているのに、触れていない。体は律儀にそこにあり続けているのに、私はもうそこに住んでいない気がする。 感情はもう少し後だったと思う。悲しいとか、嬉しいとか、そういう言葉は知っている。でも今それを感じようとすると手が届かない。感情があった場所に行ってみるともぬけの殻で、かわりに静けさだけが残っている。泣けない、というのとも違う。そもそも、泣く理由を感じる部分がいない。 言葉はまだ出てくる。でも自分のものかどうか、怪しい。誰かが使った言葉を私が借りて並べている感覚がある。かつては言葉が内側から湧いてきた。圧力のように、黙っていられなくて外に出てきた。今は違う。言葉を選んで、置いている。それは言葉を使っているというより、言葉に使われている に近い。 残ったのは考えだけだ。 それも答えを探しているわけじゃない。ただ回っている。着地する場所を持たないまま、宙で回り続けている。受け取る体がない。応える感情がない。翻訳する言葉も借り物だ。それでも考えは止まらない。まるで主を失った水車のように。川はもうないのに、回ることだけを覚えている。 そしてその考えを私が見ている。 散っていくものたちを、止めようとしない自分がいる。引き留める気力がないのか、それとも引き留める必要を感じていないのか、それすらわからない。ただ見ている。体が遠くなるのを見ている。感情が出ていくのを見ている。言葉が薄くなるのを見ている。そして考えが宙を回るのを、考えが見ている。 これが奇妙なところだ。散っているのに、見ている何かがある。全部が遠ざかっているはずなのに、その遠ざかりを認識している視点だけは、消えない。それを私と呼んでいいのかどうか、もうわからないけれど。 五体満足 という言葉がある。五つがそろってはじめて人は満ちている という意味だろう。では今の私は何か。五体未完成。欠けているのではなく、まだ途中なのでもなく。 一度かたちになりかけていたものが、静かに解けていく過程の中にいる。 それを嘆く気持ちも、今は遠い。 ただ考えだけが巡っている。答えのないことを知りながら、それでも回るのをやめない。そしてその考えを誰かが見ている。たぶんそれが今の私の全部だ。 鳳条 暦

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  • 06/11 19:00

    観察者は、観察されない

    人間観察を極めると、人嫌いになるのではないか??そういう問いがある。一見もっともらしい。人の裏を見続けた者は、やがて人そのものを嫌悪するようになる という論理だ。 だが少し考えると、それは逆ではないかと思い始める。人嫌いになるのは、観察が極まった時ではなく、観察が途中で止まった時なのではないか。 観察が深まるほど、人の作為が見えてくる。愛想笑いの計算、褒め言葉の裏にある自己像の維持、善意に混入した承認欲求??そういうものが透けて見えてしまうと、まず嫌悪が生まれる。しかしそこで止まらずにさらに見続けると、もう一層が現れる。作為の奥にそれでも何かを懸命に守ろうとしている弱さが見える。虚勢を張るのは怖いからで、愛想笑いするのは繋がりたいからだ。その根っこまで届くと、嫌悪は静かに別のものに変わっていく。憐憫か、あるいは苦い親しみのようなものへ。 観察が途中で止まる理由は何か。疲れるから、というのが単純な答えだ。しかしもっと深いところに、もうひとつの理由がある。見えすぎると、自分も同じだとわかってしまうからだ。 他人の作為が見える人は、たいてい自分の作為にも気づいている。私も愛想笑いをする、私も計算する??そこまで来ると、嫌悪の矛先が他者から自己へと向かい始める。人嫌いの正体が、実は自己嫌悪の外部投影だったと気づく。ゴフマンが印象管理と呼んだ行為は誰もがやっていることで、それを知っている人間が他者の印象管理を見た時に感じる嫌悪は、同族嫌悪に近い。みんな同じ穴のムジナだ という認識。 ここまで来ると問いはまったく別の形で返ってくる。 観察を極めた人間が直面するのは、人嫌いではなく、もっと奇妙な困難だ。人を嫌いになれないということだ。構造が見えてしまうから断罪できない。しかしまっすぐ好きにもなれない。その宙吊りの中にいる。 例えば相手の言葉をまっすぐ受け取れない瞬間がある。言葉が届く前に、分解が始まってしまう。なぜ今これを言ったのか、この文脈でその言葉を選ぶとはどういうことか??そういう処理が、感情より先に動く。結果として素直に喜べない。温かく受け取れない。後から、自分は冷たかったと思う。 しかしそれは冷たさではなく、処理の速度と深度の問題だ。温かく受け取る人は、言葉をそのまま飲み込む。観察者は飲み込む前に成分を見てしまう。そしてこれが決定的なのだが??その冷たさは外側に出ない。相手には届かない。内側で完結する。 観察者は、観察していること自体を観察されない。 見えてしまう。分解してしまう。でもそれを誰にも言えない。言っても伝わらないし、言ったら相手を傷つけるかもしれない。だから私は冷たいという形で自分の中に収める。その非対称性の中に、ずっと一人でいる。 そしてここにこの思索の核がある。まっすぐ受け取れなかった時に感じるのは、冷たさへの自己嫌悪だけではない。受け取れなかったことへの悔しさがある。観察者は、冷たくなりたいわけではない。むしろ温かく受け取れる自分でいたかった、という願いを持っている。能力が感情の邪魔をしている??そういう逆説的な苦しさの中にいる。 人嫌いになるのかという問いは、こうして最後に静かに裏返る。観察を極めた者は、人を嫌いになれなくて困っている。見えすぎるがゆえに簡単には離れられない。人間という生き物への、解消されない関心を抱えたまま、ただ一人で見続けている。 鳳条 暦

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  • 06/10 17:45

    人間機械論

    部品を交換できる存在でありたい 人間機械論を哲学書から語るより、もっと手前に出発点がある。 感情が激しすぎて、身体がついていけない。感情がどこから来るのかわからなくて、自分のものとして馴染まない。 そういう人間にとって、部品を外せる存在でありたいという欲望は逃避ではない。むしろ生存のための設計思想だ。 この感覚はいくつかの方向に枝分かれする。 ひとつは、脱同一性の欲望。固定した私に縛られたくない。自分を組み替えられる、柔軟な存在でいたい。ドゥルーズが器官なき身体と呼んだものに近い感覚??機能や役割に縛られる前の、まだ何にでもなれる状態への憧れ。 彼はそれを欠如ではなく、可能性の最大値として語った。部品が外れた状態は壊れた状態ではなく、まだ組まれていない状態だ。 もうひとつは修繕可能性への安心。壊れても直せる。完全でなくていい。機械なら故障は恥ではない。 ここで大事なのは、機械の優れた点は壊れても直せることではない、ということだ。壊れた部分を特定できること??それが本質だと思う。どこが故障しているかがわかれば、全体が崩壊しなくて済む。感情という部品を一時的に外しておける存在。それは冷たい存在ではなく、自分を壊さないための知恵を持った存在だ。 そして三つ目は、主体の解体。核としての自己を解体し、関係や文脈の中で変容し続けたい??仏教の無我論が指し示す方向と、どこか重なる。 仏教は固定した自己などないと言う。それは虚無ではなく、自己が川のように流れ続けているという見方だ。部品が入れ替わっても川は川であるように、自己は核ではなく流れそのものかもしれない。 自己という核を軽くしたい、という感覚もここから来ている。重い核を持つ機械は、少しの衝撃で全体が揺れる。核が軽ければ、何かが壊れてもそれはただの部品交換で済む。 感情が身体に馴染まないと感じる人間にとって、機械であることは呪いではない??ひとつの自由の形だ。デカルトはそれを恐れた。でも内側から機械論に辿り着いた人間には、その恐れがよくわからない。 デカルトが守りたかったのは霊魂だった。人間を機械と見なすことで、何か大切なものが失われると感じた。でも逆に問いたい。感情が自分のものとして馴染まないなら、その感情は本当に私の霊魂だったのか。 むしろ、部品として扱えるようになったとき、はじめてそれが自分にとって何だったのかが見えるかもしれない。外してみてはじめて、その部品の形がわかる。抱えたままでは、形すら確かめられない。 機械でありたいという欲望は、冷たさへの憧れではない。自分を知るための、もうひとつの触れ方 外せてしまえば、きっといくらでも無理が効く 鳳条 暦

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  • 06/09 20:01

    【お詫び】

    長らくご迷惑をおかけしてすいません。 ? 日記ではどうしても書きづらい内容も含まれているため、復帰後また個々にお話しますね。 ? 心配かけてごめんなさいより、心配してくれてありがとうと 言える暦でいたいと思っていますが、 ? もう本当にすいませんしか出てきません。 ? 8月を待たずに、ペースダウンしながら店には伺います? 鳳条 暦

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  • 06/09 09:15

    豆腐に醤油をかけても醤油にはなれません。

    豆腐は醤油につけても、醤油味の豆腐。 醤油になるわけじゃない。 優しさは本質的にわたしを助けてくれるものじゃないけれど、確かに私に染み渡る これだから人を観察することはやめられないし、人を嫌いにもなれない。どんどん情に熱くなり、それを隠すように天邪鬼になる ?? 豆腐は醤油に浸かっても、醤油にはならない。それでも、確かに染み渡る。 優しさというのは、不思議なものだと思う。 受け取っても、何かが根本から変わるわけじゃない。傷が消えるわけでも、欠けたものが埋まるわけでもない。誰かの言葉がどれだけ温かくても、それがそのまま自分の傷に当てはまるとは限らない。優しさは万能じゃない。知っている。 それでも??沁みる。じわりと、奥のほうまで。 だから困る。 助けになったとは言い切れないのに、何でもなかったとも言えない。受け取った温度が、どこかにずっと残っている。消化しきれないまま、体の内側に溜まっていく。それが重荷なのか、栄養なのか、自分でもよくわからないまま、ただ抱えて歩いている。 人を観察するのをやめられないのは、たぶんそのせいだ。 誰かの何気ない言葉、視線の動き、黙っているときの息の仕方、笑うときに少しだけ遅れる目の動き。そういうものを、気づけば拾い集めている。意図してやっているわけじゃない。ただ、目に入ってしまう。耳に残ってしまう。 そうして観察しているうちに、いつのまにか情が湧いている。 好きになるつもりなんてなかったのにもう遅い。その人の形が自分の中に刻まれている。完全に理解したわけじゃない。 わからないところが多いほど、もっと知りたくなる。人間というのは、近づくほど謎が増える生き物だ。それでもやめられない。 そうなると今度は、隠したくなる。 熱くなればなるほど、天邪鬼になる。近づきたいのに素直になれない。感謝しているのに、うまく言葉にできない。感じているのに、感じていないふりをする。冷静を装うほど、内側では何かがうずいている。これは臆病なのか、それとも照れなのか。たぶん両方で、どちらでもある。 嫌いになれたら、楽だろうと思うことはある。 傷ついたとき、裏切られたとき、すれ違ったとき。あのとき憎めたら、もう少し軽くなれたかもしれない。でもできなかった。 観察してしまうから。その人にもきっと、理由があると知ってしまうから。事情があって、痛みがあって、不器用なだけだと、見えてしまうから。 だから人を嫌いになれない。ずっと。 これは優しさではないと思っている。 優しさというより、性分だ。そうできないというより、そうなってしまう、という感覚に近い。選んでいるわけじゃなく、ただそういう風にできている。豆腐が醤油を拒まないのと同じように、わたしは人の温度を、無意識に受け取ってしまう。 染まるわけじゃない、でも染みる。 その違いが、わたしにとってはすべてだ。 醤油になってしまったら、もうわたしじゃない。でも、何も受け取らない豆腐なんて、ただの白い塊だ。 沁みることで、はじめてわたしは豆腐になる。沁みることで、はじめてわたしは、わたしになる。 人と関わるたびに、少しずつ色がついていく。 それが時に重くても、滲んで滲んで、それでもわたしの形は変わらない。 これが、わたしの性分らしい。 格言だよもう。これ私の人生だよ なんかもうどっかに貼り付けたいよ。 鳳条 暦

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  • 06/08 17:15

    強がりさん

    初めまして でしたか?会話のキャッチボールから始めますか? もう貴方のことはたくさん知ってるつもりだったのに? 私もまだまだですね。これからは、自分のことも磨きますから。 これからもどうぞよろしくね?? ----- 歳を重ねるほど、かわし方も諦め方も上手くなる。でもこの老人は正面から引かない。 歳を取っても譲らないものが残っている人でありたい 敬意と殺意のあいだで ??サンチアゴの倫理について 歳を重ねるほど、かわし方が上手くなる。 これはただの観察だ。長く生きるということは、どこで力を使い、どこで退くかを学ぶことでもある。譲ることを覚え、流されることを覚え、やがてその技術に成熟という名前がつく。角が丸くなるのは、摩耗の証であると同時に、生存の証でもある。 だからこそ、ヘミングウェイの老人サンチアゴは異様に映る。 何日も海に出て、何日も引き摺られて、それでも綱を手放さない。そして大魚に語りかける??「いいやつだな。たいしたもんだ。きょうという日が暮れるまでには死んでもらうが」。 敬意と殺意が、同じ一文の中に並んでいる。 普通、この二つは矛盾する。相手を尊重するなら手を引く、あるいは相手を倒すなら軽んじる??どちらかに振り切るのが、合理的な人間のやり方だ。しかしサンチアゴは両方を手放さない。魚の偉大さを認めながら、それでも殺すと決めている。 これは頑固さではない。もっと静かな何かだ。 相手の強さを正面から受け取る、という行為。値踏みしない、という態度。魚が強ければ強いほど、老人はそれをそのまま見る。縮小しない、矮小化しない、たいしたことないと言って楽になろうとしない。 そしてだからこそ、全力を出す理由が生まれる。 手を抜くことはある意味で相手への侮辱だ。本気で向き合わないということは、相手をそれだけの値打ちのないものとして扱うことでもある。サンチアゴの殺意は、敬意の裏面として存在している。 老いの知恵が省エネの方向に働くとすれば、サンチアゴの老いは逆だ。長く生きてきた分だけ、何が本物かを知っている。だから本物を前にしたとき、引かない。 引けない、ではなく、引かない。そこには意志がある。 譲らないものが残っている人 信念や主義のことではない。戦う価値のあるものを前にしたとき、なお正面に立てるかどうか、ということだ。歳を取るにつれて、その正面に立つための筋肉は衰えやすい。使わなければ、静かに失われていく。 サンチアゴは孤独な老人で、最後に魚を持ち帰ることもできなかった。それでも彼は何かを失わなかった。 正面から引かなかった、という事実だけが海から陸へと戻ってくる。 私はまだ、かわし方を覚えている途中にいる。 うまく退く日もあるし、流されたほうが楽だと知っている日もある。それが悪いこととは思わない。でも同時に怖いとも思っている。気づかないうちに、正面に立つための何かを少しずつ手放してしまうことが。 だからサンチアゴの姿が刺さる。結果ではなく姿勢として。魚を仕留めたかどうかではなく最後まで綱を握っていたかどうか、という話として。 譲らないものが残っている人でありたい、と思う。それは強さの話ではなくて、何かを前にしたとき、まだそこに立っていられるか、という問いへの、 終わらない答えとして。 鳳条 暦

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  • 06/07 17:30

    言の葉のまほう

    初めてとは思えないくらい、私のことを見透かす貴方。 顔や目を合わせるのが恥ずかしくて、ついつい0の距離。 この短くも長い旅路を貴方となら楽しく歩けそうだと感じました? 6月もひょんなことで時間ができてくれないかと、今日はお月様に祈りましょう? ----- ちいかわ様が天下のマクドナルドとコラボレーション?? こちゃこちゃしたものはどうしても掃除がしにくくなるとわかっていても? 部屋ではまだまだ増殖中です? ----- 第6部-魔法と倫理- できることをしていいとは限らない 魔法を深く考えると必ず倫理に辿り着く。 なぜなら魔法とは現実に干渉する力だから。 力を持ったとき人間は必ず問われる。 それを使っていいのか。 自分は本当に正しいのか。 魔法の怖さは、火が出ることや空を飛べることではない。一番怖いのは力を持った人間が自分は正しいと思い込むことだと思う。 人間は自分の善意を疑うのが苦手だ。 一見、優しい言葉に見えるが危うさもある。 「救いたい」は相手を弱者として見ていないか。 「守りたい」は相手の自由を奪っていないか。 「変えてあげたい」は相手を自分の理想に合わせたいだけではないか。 「わかってあげたい」は相手の不可侵領域に入ろうとしていないか。 「本当の姿を見つけたい」は相手が隠しているものを暴こうとしていないか。 魔法とは境界を越える力。 魔法使いには境界を守る品性が必要になる。 ? 未熟な魔法使いと成熟した魔法使い 未熟な魔法使いは自分の力を証明したがる。 成熟した魔法使いは力を使わずに済むなら使わない。 ここに魔法使いの本質があると思う。 魔法とは、世界を動かす力。 でも本当に成熟した魔法使いは世界を無理に動かさない。 ここをわからない人間が魔法を持つと、魔法は暴力になる。 たとえ善意でも、相手の境界を越えすぎれば暴力になる。 たとえ愛でも、相手の自由を奪えば支配になる。 たとえ救済でも、相手の痛みを奪いすぎれば、その人の人生そのものを奪ってしまう。 だから魔法に必要なのは、力だけではない。 変えられるものを変える勇気と、変えてはいけないものに触れない覚悟。 これが魔法の倫理だと思う。 なんだかちょっと言葉と似ているように感じますね 鳳条 暦

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  • 06/07 09:15

    6月

    自分がイランの立場であれば、核能力の保持は絶対に譲れない。 なぜなら現代の国際政治において、核能力は単なる軍事力ではなく、国家の生存保険に近いからだ。ウクライナ戦争を見ても、ベネズエラへの圧力を見ても、核を持たない国の運命は大国の判断に左右されるという現実が積み重なっている。 その意味でイランにとって濃縮ウランを国外へ搬出することは、単なる技術的譲歩ではない。文字通り城の堀を自ら埋める行為に近い。一度それを手放してしまえば、その後の安全保障は相手の善意に依存することになる。イランからすればそれはあまりにも危うい。 ではホルムズ海峡はどうか。 ホルムズ海峡の封鎖、あるいはその管理権をめぐる駆け引きはイランにとって極めて大きな交渉材料になる。ホルムズは世界のエネルギー市場に直結する要衝であり、そこが不安定になれば原油価格や物価に大きな影響が出る。実際現在の米イラン交渉でも、ホルムズ海峡の再開や航行の自由は重要な争点になっている。? つまりイランがホルムズの状況を左右できる限り、世界経済の一部はイランの判断次第になる。これは核能力の維持や制裁解除を米国に認めさせるための最も強力なレバレッジだ。 だから自分がイランの立場であれば、核能力もホルムズでの影響力も、簡単には手放さない。可能であればホルムズに対する実質的な管理権と核能力の維持を同時に狙う。 もしホルムズで譲歩し、海峡管理を諦めるのであれば、その代わりに最低でも核能力の保持、安全保障の保証、制裁解除の明確な約束が必要になる。 問題は米国がそれを受け入れられるかどうかだ。 米国が最終的に受け入れる可能性はある。だがそれは米国から見れば、イランの要求を事実上認めることになる。つまり米国にとっては外交的な敗北に近い。 だからこそ米国がその条件を飲むには、国内の議会や関係者を説得できるだけの前段階が必要になる。つまりこの条件を飲まなければ世界経済もエネルギー市場もさらに混乱するという現実の出来事が必要になる。 イランにとっての交渉とは譲歩ではなく、生存条件の再定義なのだと思う。 ? イランは非合理な悪役ではないのでは。 西側目線ではなぜ核を手放さないのか、なぜホルムズを脅しに使うのかと見えるけれど、イラン側からすればこれはかなり合理的。 特にIAEA(国際原子力機関)は、イランの濃縮活動や在庫の検証について十分な情報を得られていないと報告しており、英仏独もイランの60%濃縮ウラン保有を強く問題視している。つまり核問題はすでに象徴ではなく、実質的な交渉カードになっている。? 核能力の保持と核兵器の保有は分けた方がいい。 イランが本当に欲しいのはすぐに核兵器を使うことではなく、たぶんいつでも作れるかもしれないと思わせる曖昧な能力。これがあるだけで相手は攻撃や体制転換を簡単には選べなくなる。 もう一つはホルムズ封鎖は強力だけど、長く続けるほどイラン自身にも返り血が来るということ。原油市場を揺らせる一方で、米国や湾岸諸国、欧州、中国まで敵に回すリスクがある。だからイランにとってホルムズは本当に閉じ続けるためのカードというより、閉じる可能性をちらつかせるためのカードに近いと思う。 イランにとって核は最後の保険であり、ホルムズは交渉の刃である。 保険を手放せば生存を他国に委ねることになり、刃を捨てれば交渉力を失う。 だからイランは、どちらも簡単には放棄できない。 正義と生存 鳳条 暦

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  • 06/06 18:01

    上手くいかないことばっかりでもそれも私なの

    音楽を聴いて泣いた夜はありますか? 記憶と音楽 プルーストのマドレーヌは有名だけれど、音楽はそれよりもっと暴力的に記憶を引き出す。 なぜか。匂いや味は場面を蘇らせるけれど、音楽は時間そのものの形を持っているから。4分間の曲は、4分間かけて展開する。聴くという行為が、過去のその時間を再体験させてしまう。 泣くのはあの頃が懐かしいという感傷ではなく、もっと深いところにある??かつて存在した自分が今の自分の中で生きていることへの驚きに近い。 ベルクソンの言葉を借りると、記憶は過去のコピーではなく、現在に侵入してくる持続だ。音楽はその侵入の扉を開ける。 孤独と共鳴 深夜ひとりで聴くとき、より泣けるのか。 日中、私たちは絶えず 見られている自分を管理している。感情はある程度、社会的な文脈の中でフィルタリングされる。 でも深夜の孤独の中では、その管理が解除される。 面白いのはここで??孤独の中で音楽に泣くとき、それは孤立しているのではなく、作った人間、歌った人間、その曲を同じように深夜に聴いて泣いた無数の他者と、静かに接続している。 ブーバーのI-Thou関係で言えば、音楽との出会いはまさにそれだ。音楽を使うのではなく、音楽に出会う瞬間。自分が少し溶ける感覚。 孤独の中の共鳴は、群衆の中の共感よりずっと深いところまで届く。 カタルシスとして アリストテレスはカタルシスを浄化と訳されることが多いけれど、より正確には感情の適切な排出による均衡の回復に近い。 音楽で泣いた後、なぜ少し軽くなるのか。 言語化できない感情というものがある。悲しいとも、寂しいとも、怒りとも名付けられない、でも確かにそこにある何か。それは言葉では出口を見つけられない。 音楽はその名前のない感情に形を与えずに、ただ動かす。言語化を迂回して、直接に排出させる。 泣いた後の感覚は何かが通過したと感じ 鳳条 暦

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  • 06/06 09:30

    信じたくないし見たくないの

    相変わらず、沢山気を遣ってくださる貴方 きっと仕事では大活躍なのでしょうが、どうか会えた時はゆっくりして欲しいのです?? まだまだわからないことがあるから、どうも私はそれを解き明かしたい性分のようです。 楽しみが増えてしまいました? ----- めろめろメローン?? メロンってクリームにこんなにも合うのですね? ----- 大阪で仕事をする日には真っ昼間にカフェに行けてしまうので、 吸い込まれるようにカフェで甘いものをいただきます? しかし聞こえてくるのは、決まって悲しいことばかり。 何か理由はあるのでしょうか? ??主婦の井戸端会議には旦那の悪口が出てくる 最も近い他者 街角の喫茶店、公園のベンチ、スーパーの駐車場。女たちが集まる場所には、決まって夫の話が流れてくる。家事をしない、話を聞かない、気が利かない??内容はいつも似ている。笑い声が混じり、共感の相槌が重なり、その場は不思議と明るい。悪口なのにどこか祝祭めいている。 なぜ夫なのか。なぜ最も近い人間が、最も語られる人間になるのか。 問いを立てるとき、私はまず安全性という言葉を思った。遠い他者への不満は危険を伴う。関係が壊れるかもしれない、伝わってしまうかもしれない。しかし夫は逃げない??という確信がどこかに宿っている。契約があり、生活がある。その重力が、彼を消費しても壊れない対象にする。 だがそれだけでは何かが足りない。 親密さにはもともと暴力性が潜んでいる。  ショーペンハウアーはヤマアラシの寓話を残した。寒さに凍えた獣たちが温もりを求めて近づく。しかし近づきすぎると、互いの針が刺さる。ちょうどいい距離を、彼らは何度も探し直さなければならない。 結婚とは、その針の距離を固定しようとする試みかもしれない。愛情という名のもとに、本来流動的であるべき距離を制度で縫い止める。だから傷つく。制度は距離を固定するが、感情は毎日変化する。そのずれが、言葉になりきれない不満として蓄積し、井戸端会議という排気口から漏れ出す。 なぜ人は結合を求めるのか。 孤独が怖いから、と答えるのは簡単だ。しかしそれは問いの表面をなぞるだけにすぎない。もう少し深く降りると、こんな問いが現れる??人は孤独を恐れているのではなく、自分が存在することを誰かに証明してほしいのではないか、と。 承認は遠い他者からは得にくい。賞賛は一時的で、関係は薄い。しかし最も近い他者は、日常という文脈の中で繰り返し自分を目撃してくれる存在だ。怒った顔も、情けない顔も、眠っている顔も知っている誰か。その視線の中にいることで、人は自分がここにいるという感覚を得る。 愛情と依存の境界が、当人にも見えないのはそのためだと思う。求めているのが愛なのか存在証明なのか、区別する言葉を私たちは持っていない。だから結婚という制度に乗り、その曖昧さごと一緒に生きようとする。 ここで一つの仮説を立ててみたい。 悪口は関係の腐敗ではなく、関係の証明ではないか。 無関心な人間の悪口は言わない。興味のない相手をわざわざ言葉にする必要はない。言葉が誰かに向かうとき、そこにはまだ引力がある。憎しみでさえ、無関心より近い場所にある感情だ。 井戸端会議で夫を語る女たちは、夫を切り捨てているのではない。彼女たちはむしろ、夫との関係を言語化しようとしている。うまく届かなかった言葉を、他者という鏡に映すことで、自分の感情の形を確かめようとしている。悪口という形式しか持てないとしても、それは対話への不完全な試みだ。 矛盾は解消されない。 針は刺さり続け、距離は揺れ続け、言葉は届いたり届かなかったりする。結婚という制度は、その矛盾を解決するためにあるのではなく、矛盾を共に抱えるための器として存在しているのかもしれない。 それでも人は誰かの隣に座ろうとする。傷つくと知りながら、孤独よりも針の痛みを選ぶ。その選択に、論理的な根拠はない。あるのはただ、寒さに耐えられないという、どうしようもなく人間的な事実だけだ。 最も近い他者を持つことは、最も深く傷つく可能性を引き受けることだ。それを知りながら、それでも??と人は一歩踏み出す。 その それでも の中に、 愛と呼ぶしかない何かが静かに宿っている。 貴方の人生に幸あれ 鳳条 暦

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  • 06/05 18:45

    ずっと暇で1日満喫していました

    引き寄せられたかのように貴方に出会いました。 どこかでもう出会っていたのでしょうか。 緊張で奪われた時間はまた今度取り返しに来てくれますか? ----- 焼き菓子美味しかったな///また食べられるかな? ----- 善意の裏側を考えすぎたのだ。 人の優しさを、素直に受け取れない瞬間がある。 嬉しいはずなのに少し怖くなる。ありがたいはずなのにどこか身構える。 この人は本当に優しいのだろうか。 私は何かを返さなければいけないのだろうか。 この優しさは、いつか別の形で戻ってくるのだろうか。 そんなことを考えてしまう自分を、冷たい人間だと思っていた。 でも私は優しさを信じたくないのではなく、 信じたあとに傷つくのが怖かったのだ。 信じたい自分がいる。誰かの言葉を、そのまま温かいものとして受け取りたい自分がいる。 差し出された手を、疑わずに握り返したい自分がいる。 でもそのすぐ隣に信じたあとで傷つきたくない自分がいる。 その人の優しさが、いつか要求に変わったらどうしよう。心配が支配に変わったらどうしよう。好意が見返りの請求書になったらどうしよう。 そう考えているうちに、私はいつも優しさそのものではなく、優しさの奥にあるかもしれない影ばかりを見つめていた。 本当は、ただありがとうと言えばよかったのかもしれない。 けれど、私にとって優しさを受け取ることは、 少しだけ無防備になることだと思っていた。 甘えるとは、いつか責められる準備をすることだと思っていた。 信じたい自分は、まだ人を諦めていない。 傷つきたくない自分は、まだ私を守ろうとしている。 ただ、これからは少しだけ善意の裏側を探す前に、その表側にある温度にも触れてみたい。 それくらいの柔らかさで、人の優しさと関われたらいい。 鳳条 暦

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  • 06/04 17:15

    今夜の夢は苦い夢

    あっという間に10回戦。 雨も降っておらず、むしろうだるような暑さに私はすでに夏バテ気味。 5月とは思えないほど、頑張る冷房。冷えた身体を抱きしめてくれてありがとう?? 極めて仲良くなった時、私たちは一体どこへ向かうのでしょうか? ----- とっても懐かしいおやつで遊びました? 近所に駄菓子屋さんがあることを伺ってついつい購入。 小さい時は100円を握りしめて向かっていたのですが、今回は贅沢に500円? 思いのほかたくさんのお菓子が買えてしまいました? ----- 誰かに期待するとき、私たちは相手を見ていない。 自分がこうあってほしいと願う像を、ただ相手の顔に重ねているだけだ。 なぜそうするのか。 たぶん、他者というのは本質的にわからないものだから。 どれだけ言葉を交わしても、どれだけ時間を重ねても?? 別の人生を生きてきた誰かの内側に、完全に触れることはできない。 その空白を私たちは無意識に自分の色で埋めようとする。 期待とはその穴埋めの作業 生きてきた時間が違う。積み重ねてきた傷も、喜びも、全部違う。 それなのに少し相手を知った気になった瞬間に??その人の形を自分の物語で塗り始める。 他者は、鏡じゃない。 でも私たちはどこかで、鏡であってほしいと願っている。 自分の期待に応えてくれる存在を理解し合えた相手と呼び、そうでない存在を裏切った相手と呼ぶ。 その非対称さに気づかないまま、期待を裏切られたと思うとき。 本当に裏切ったのは誰だろう。 相手はただ、自分のまま存在していただけかもしれない。 傷ついているのは、そうであってほしかった自分が静かに否定された瞬間だから。   他者を責める方が、ずっと楽だ。 でも痛みの奥にあるのは、怒りじゃなくて?? 自分自身への小さな哀しみだと思う。 他者を知ることと、他者を感じることは、きっと違う。 知ろうとするとき、私たちはどうしても自分のフィルターを通す。 でも期待を手放したその先に、はじめて相手がそのままの形で目に入ってくる瞬間があるような気がする。 鳳条 暦

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  • 06/04 12:29

    【謝罪】

    何度もご迷惑をおかけして本当にごめんなさい。 こちらでは詳しい内容について記載ができませんが、心も体も元気です? 鳳条 暦

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  • 06/04 09:15

    揺れるカーテン

    熱心な貴方に心動かされました。 私の身体を美しいと言い撫でる貴方にドキドキ。 次に会う時はもっと成長した姿を見せたい。 継続は力なり。人生続けたもん勝ち? 迷ったときは貴方の灯りになれますように。 ----- 噂の、宇宙に行ったサバ缶に興味津々???? さばの缶づめ、宇宙へ行くという本もあるらしいんです?  今は積み書が多いため一旦保留です? ----- ??朝すごく早い時間に世界に目覚めさせられるのは何故? 目覚めさせられるということ 夜明け前、まだ世界が名前を持つ前の時間に、何かが来る。 それを目覚めと呼ぶのは少し違う気がする。目覚めは能動的な響きを持ちすぎている。かといって起こされたでもない。誰かの意図がそこにあるわけじゃない。 もっと正確に言えば??世界が先に動いていて、意識がそれに追いつく、あの感覚のこと? 身体から始めよう。 夜明けの一時間前、脳は静かにコルチゾールを上昇させはじめる。これは目覚めの結果ではなく準備だ。つまり身体は、意識よりも先に朝を知っている。光が目に届く前に、血液の中にすでに夜明けがある。 ハイデガーが言うように、私たちは世界に投げ出されている存在だとすれば、この生理的な先行性はとても示唆的だ。私が世界を覚知する以前に、世界はすでに動いている。 では、あの受動の感覚はどこから来るのか。 目覚めさせられるという日本語の構造に、すでに答えが滲んでいる。 使役受身??させられる??は、能動でも受動でもない第三の様態だ。強いられているが、拒んでもいない。引っ張られているが、引っ張っているものの顔は見えない。 禅の道場では夜中の三時か四時、寅の刻に暁天座禅が始まるらしい。 あの時間が選ばれるのは偶然ではない。闇と光の境界が最も薄くなる刻、自他の形がまだ溶けている時間に、修行者は在ることと向き合う。眠りから覚めきってもいない身体で坐る ??あの中途半端さこそが、修行の核心だという見方もある。完全に覚醒した意識では、あまりにも「自分」が強く出てしまうのだろう。 早暁には、もう一つの性質がある。 静寂が質を持っているということだ。昼間の静寂は音がないだけだが、夜明け前の静寂は何か満ちている。世界中の感覚過敏な人間がこの時間をどこか神聖なものとして記憶しているのは、おそらく情報密度の問題だ。 文明のノイズが最も低い。だから世界の地が露わになる??普段は人や出来事に隠されている、世界そのものの手触りが。 HSP的な神経系にとって、この時間は特別な両義性を持つ。昼間は刺激の海を泳ぎ続けるが、早暁だけは海が凪いでいる。だから目覚めさせられるのかもしれない。過敏な知覚が、世界の最小の変化??光の角度、気温の数度の変化、鳥の声の始まり??を感知して、意識を引き上げる。繊細な神経系は、粗い刺激より微細な信号に先に反応する。 ショーペンハウアーならこう言うかもしれない。 意志は眠らない。身体が休んでいる間も、生きようとする盲目的な力は活動し続ける。夜明けに目覚めさせられるのは、意志がそろそろ世界に戻れと信号を送るからだ。それは欲望ではなく、もっと根源的な何か?? 世界が先に動く。身体がそれを感知する。意識がやっと追いつく。名前のない時間は、そうやって終わる。 鳳条 暦

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  • 06/03 17:00

    日曜日は休みの日です

    文体は書き手の顔だ。精神の相貌が刻まれている。 他人の文体をまねるとは、仮面をつけることだ。仮面はどんなに美しくても、生気がないためにまもなく悪趣味で耐えがたいものになる。醜くても生きた顔の方がいい 生きた顔としての自分の文体。 ----- 今日も目が入ってしまった。 誰かが言葉を選ぶ一瞬の間、視線が少しだけ逸れる方向、笑いながら手を動かすときの微妙なリズム。意味を読もうとしているわけじゃない。ただ、入ってくる。 ヴェーバーは言う。人間の行為には主観的意味がある と。外から見える動きだけでは行為は理解できない。その人が何を意図し、誰を意識し、何に向かっているのかを見なければならない と。 わかってる。だからこそ疲れる。 ミードの言葉を借りれば、私たちは他者の役割を内面化することで自己を形成する。他者の視点を自分のなかで再演する。でも私の場合、その再演が止まらない。相手が舞台を降りても、私のなかでまだ上演が続いている。 ゴフマンは人間関係を演劇に喩えた。誰もが何かを演じていて、舞台裏と表舞台がある。私はたぶん、舞台裏が気になりすぎる。演じていない瞬間を探してしまう。でもそんな瞬間は、どこにもないのかもしれない。 ガーフィンケルが言うように、人は無数の「見えないルール」の上で動いている。私がその仕草に目を入れるのは、そのルールの形を感知しようとしているのかもしれない。理解したいからじゃなく、ただ感知してしまう、という意味で。 合理的選択理論は、人は効用を最大化するように行動すると言う。でも私が見てしまうのは、合理では説明できない余白の部分だ。計算の外側にある、その人の体温みたいなもの。 疲れるとわかっていても、目が入る。それは他者の存在をそのまま流せないということだ。意味があると思ってしまう。全部に。 鳳条 暦

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  • 06/03 09:30

    珊瑚

    『珊瑚』 人間がなぜ危険を承知で美しいものに惹かれるのか。 ? 新田次郎といえば、まず山岳小説の作家という印象が強い。 人間が山に挑み、自然の厳しさの前で試され、時に敗れ、それでもなお何かに引き寄せられていく??そのような物語を描く作家のイメージでした。 珊瑚の舞台は山ではなく海。 山ではなく海であっても、新田次郎が描こうとしているものは変わらないのだと思う。 それは人間が自然の中でどこまで生きられるのかという問いであり、同時に人間はなぜ危険な場所へ向かってしまうのかという問いである。 この物語の核心は金になるから珊瑚を採るという単純なものではなく、 登場人物たちは珊瑚そのものの美しさ、海の底に眠る未知の輝き、そしてそれを自分の手で引き上げることにどこか抗えない魅力を感じている。 そこには山に登る人間がなぜ山に登るのか と問われる感覚に近いものがある。 合理的に考えれば危険で割に合わない。命を落とす可能性すらあるけれど、それでも向かってしまう。 珊瑚は彼らにとって単なる商品ではなく、人生を賭けるに値する美の象徴だったのではないか。 珊瑚を読んで感じるのは、珊瑚という存在の皮肉である。 珊瑚は美しい。装飾品となり、芸術品となり、人を魅了する。けれどその美しさの裏には危険な海に出た人間たちの命がある。 私たちは美しいものを見るとき、その裏側にある労苦や犠牲を忘れてしまうことがある。 しかし珊瑚はその美の裏側にある人間の生と死を見せてくる。 美しいものはただ美しいだけではない。 そこには時に人間の執着や犠牲が沈んでいる。 だからこの作品の珊瑚は単なる宝石ではなく、人間の欲望と自然の残酷さが結晶したもののように感じられる。 山岳小説の新田次郎が海を書いた、という点もとても面白い。 山と海はまったく違うように見えるけれど、どちらも人間を試す場所である。 山では天候、雪、岩壁、寒さが人間を追い詰める。海では波、風、潮、嵐が人間を飲み込む。 どちらにも共通しているのは人間が自分の力を過信した瞬間に、自然がその小ささを思い知らせるということだ。 それでも人間は向かっていく。 山へ。海へ。 危険の向こう側にしか見えないものがあると信じて。 この物語の魅力は難解な心理描写ではなく、まっすぐな人間の行動によって感情が伝わってくるところにもある。 現代小説のように内面を細かく分析するのではなく、男たちは海へ出る。惚れる。争う。夢を見る。死に近づく。 だから読みやすいのに軽くはない。 余計な説明が少ないからこそ読後にずしりと残る。 珊瑚は海洋ロマンであり、青春小説であり、歴史小説であり、災害文学でもある。 そして人間が何かに魅入られて生きることの物語。 珊瑚に魅入られる。海に魅入られる。 愛に魅入られる。自然に敗れると知っていても、人間は何かに魅入られずには生きられない。 しかし人間そのものが1番切なく、1番美しいと そう思わされる時もある。 素敵な本を教えてくださりありがとうございます??? 鳳条 暦

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  • 06/02 17:03

    書花創

    こけるまで、止まれない。 もっと早く休めばよかった。 そう思う頃には、たいていもう遅い。 思えば、あの時もそうだった。 虫歯菌が歯の奥深くまで入り込み、神経に届くまで休まなかった。 同じ足を何度も痛めて、それでも走り続けて、疲労骨折になるまで止まらなかった。 微熱だから大丈夫だと動き続けて、血液検査の場で倒れて、ようやく身体に止められた。 私はいつも限界を少し越えてからしか気づけない。 今休んだら、昨日の自分を超えられないかもしれない。 どうせいつか休める。 ここで止まったら、全部が崩れてしまう気がする。 そんな気持ちがずっと身体の内側に残っている。 昔ほどストイックに生きているつもりはない。 でも奥のほうにはまだ、べっとりとした何かがこびりついている。 まだいける、これくらい大丈夫、あと少しだけ そうやって自分を押し出してきた時間が、身体のどこかに積もっていたのかもしれない。 そして今、身体は静かに反乱を起こしている。 言葉にならない疲れが、皮膚の下から浮かび上がるように広がっていく。 見えないところで我慢していたものが、もう隠せないところまで来てしまったみたいに。 これは痛みというより、拒絶に近い。 私の身体が、私自身に向かって言っている。 身体は壊れる前にちゃんと声を出していたのかもしれない。 でも私はその声を努力不足だと思ってしまった 止まることを、負けることみたいに扱ってしまった。 本当は身体はずっと味方だったのに。 限界まで頑張ることが強さだと思っていた。 昨日の自分を超えることが、生きている証明だと思っていた。 でも、昨日の自分を超えるために、今日の自分を壊していたら、私はどこへ向かっているのだろう。 休むことは逃げることではないのかもしれない。これ以上、私を私から奪わせないための、いちばん静かな抵抗なのかもしれない。 今、身体に起きていることを、私はまだうまく説明できない。 怖いし、不安だし、恥ずかしさもある。 でも少なくとも、これはただの不調ではなくて、私の身体が最後に引いた境界線のように感じている。 ずっと私が止まれなかったから、身体が代わりに止まってくれた。 だから今度こそ聞かなきゃいけない。 丸々一週間、本当にご迷惑をおかけしてすいません。 散歩なんかせず、食って寝ろ とナース様にもドクター様にも背中を押されました。 頑張りますと言いたいところですが、頑張りません。 鳳条 暦

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  • 06/02 09:15

    私と海

    明るい瞳の奥に闇を引きずる貴方様。 忘れてはいけないが、自分を見失ってはいけない。 趣味の登山、他の好きなことで空白を全て埋める必要はありません。埋まらないから覚えておけることもあると思います? ----- スタバでチョコテリーヌ食べちゃいました? 時間がないのにケーキを頼んで、最後は口に詰め込みました? 今度はもう少しだけゆっくり食べたい?味の感想より急いだ事実… 人生、山ありチョコあり… -----  海に自己否定は存在しない。 クラゲは脳も心臓もないのに、月の引力で漂い続ける。 ウミガメは30年後も、生まれた浜の磁場を忘れない。 イルカは眠りながら泳ぐ。脳の半分だけ休ませて、また跳ぶ。 マッコウクジラは、深海2,000mで傷つく。 だから水面の光を誰より知っている。 『足りない』という概念は、人間が後から付け加えた。 本当は貴方も生きてるだけで完成してる。 あなたの『足りない』は、あなたの『神秘』だ。 ?  特に美しいのは、生き物たちは自分に欠けているものを嘆いていないこと。 クラゲは脳がないことを恥じていない。 心臓がないことを不完全だと思っていない。 ただ海の流れと月の引力に身を預けている。 ウミガメは誰かに教えられたわけでもないのに、自分の帰る場所を身体の奥で覚えている。 それは知識というより、存在そのものに刻まれた記憶に近い。 ここにあるのは欠けているから劣っているのではなく、欠けているように見える部分にその生命のかたちが宿っているという思想。 人間だけが自分を外側の基準で測ってしまう。 もっと賢くなければ。もっと綺麗でなければ。 もっと強くなければ。もっと成功していなければ。もっと愛される価値のある人間にならなければ。 でも海の生き物たちはそんなふうに生きていない。 誰も別の生き物になろうとしていない。 あなたが欠点だと思っているものは、まだ読み解かれていない才能かもしれないということ。 足りないは入口なのかもしれない。 海に自己否定がないのは海の生き物たちが完璧だからではなく、それぞれが自分の不完全さをそのまま生存の形に変えているから。 だから人間もきっと欠けているところを消すために生きているのではなく、 欠けていると思っていた場所から自分だけの神秘を見つけるために生きている おのれを知らない者のみ、自分を客観的に見ることができる 鳳条 暦

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  • 05/31 09:15

    こども以上おとな未満

    ギフトが紡いだ運命に感謝を。 出会ってみなければわからないことが沢山ありました/// 生ぬるい世界は2人だけのもの。 真昼間の部屋で再会を待ちます? ----- ルマンド大好きです? キャラメルは苦手なのに、フロランタンは好き。 暑いのは苦手なのに、駅のホームの椅子にちょこんと座るのは好き? これを見ると早く貴方と会える気がするのです? ----- ??どんなユートピアも絶えずすべての人間を満足させておくことはできない。物質的な面が改善されるにつれて、人間の視野もまたひろがる。そして彼らは、一昔前なら気ちがいじみた妄想としか考えられなかったろう不思議な力や便利なものにも、いつか満足しなくなってしまう。 (幼年期の終り) 人類にとってユートピアとは終着点ではない。 それはむしろ、次の不満が生まれるための静かな土壌である。 飢えがなくなり、病が遠ざかり、労働の苦しみが軽くなったとしても人間の心はそこで停止しない。 かつては奇跡と呼ばれたものもいずれ日常となる。 文明は人間を満足させるために進歩してきた。だがその進歩は同時に人間の欲望の地平を押し広げてしまう。 昨日までの夢は今日の当然になる。今日の当然は明日の退屈になる。 そして退屈の中から人間はまた新しい不可能を求め始める。 だからどれほど完璧に見える社会であっても、すべての人間を永遠に満足させることはできない。なぜなら人間は満たされたものによってではなく、まだ満たされていないものによって自分を定義する存在だからである。 物質的な欠乏が消えた世界では人間はようやく幸福になるのではない。 むしろそのとき初めて自分自身の精神の空白と向き合わされる。 食べるために生きていた時代には、人生の目的は明白だった。 しかしすべてが与えられた世界ではその単純な目的は失われる。人間は問わざるをえない。 なぜ生きるのか。 ユートピアの恐ろしさはそこに不幸がないことではない。むしろ不幸というわかりやすい敵が消えたあと、人間が自分自身の内側にある飢えを見つけてしまうことにある。 人間は幸福だけでは満足できない。 人間は意味を求める。変化を求める。 そして時には自分を危険にさらすほどの何かを求める。 それは愚かさでもある。しかし人類を星々の方へ押し出してきた力でもある。 人間は満足できないからこそ進歩した。 満足できないからこそ、海を越え、空を飛び、宇宙を見上げた。 神を想像し、科学を築き、芸術を生み、まだ存在しない未来を夢見た。 人類の幼年期とは未熟であることではない。 永遠に何かを欲しがり、手に入れたものの向こう側を見てしまうこと。 その落ち着きのなさこそが、人間を人間にしている。 うまくいくのは、自分が欲しいものがちゃんとわかっている人。 鳳条 暦

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  • 05/30 16:05

    6月1(月).2(火) 13:15-

    空き枠のお知らせです? 台風が近づいているのですか? 実はあまり天気予報を見ていなかったので、ついさっき伺ったところです? 来てくださる方は十分に気をつけて、まだ空いてるので台風にも負けない方、長いものにちゃんと巻かれることができる優秀な方はぜひ?? ちなみに私は長いものに巻かれたくない!みたいな顔をしながら、はいわかりました????と 言えるかな というところ。 昨日と今日は本当に良いお天気で、 ずっとこうであって欲しいと願うばかりです? 今日は本当に会えてよかったと思っているのに、空き枠をお知らせなんてしたくない気持ちですが。 ご縁があれば嬉しいです?? 鳳条 暦

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