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鳳条 暦

鳳条 暦

(23)

T164 B83(E) W55 H82

 

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  • 06/17 09:30

    休息のエスプリ

    まるで深い眠りの湖底から浮上して水面を破って顔を突き出すような、全身の細胞が生まかれ直ったような爽快感。あの短い時間は確かに、自分が休まっている気がする。 根源的にはそう、自分の生命が自分の内側に戻ってくる感覚なのだと思う。 まるで湖底から浮上して、水面を破って息を吸う。 その瞬間、世界は明るくなる。身体がまだ生きていると 思い出す。心が私はまだ戻れる と知る。 回復というより、再接続に近い。 ? アリストテレスは、幸福は余暇 の中に宿る、という考え方をしていた。ここでいう余暇は、だらだらすることではなく、労働や義務から離れて、人間が人間らしく在るための時間のこと。 休みとは何もしない時間ではなく、自分が何のために生きているのかを身体の奥で取り戻す時間でもある。? ただそこにいていい存在として貴方が私を戻してくれるから心の休まりを感じたのかもしれません。 休息は眠ることだけじゃない。自分を演じなくていい場所に戻ること。 誰かの前で少し呼吸が深くなること。 ? ウィニコットの本当の自己/偽りの自己 という考えが近い。ウィニコットは、人には社会に適応するための自己と、もっと個人的で内側にある自己があると考えた。 健康な人にも社会化された自分は必要だけれど、そればかりで生きると本当の自分が奥に隠れてしまう。? ちゃんと休めているのかな と感じるのは、 もしかすると身体が疲れているだけじゃなくてちゃんとしようとする自分が、ずっと前面に出続けているからなのか。 休んでいるつもりでも、頭の中でまだ誰かに説明していたり…自分を見張っている時は、まだそれに適応している自分が働いている。 本当に休めている時は、たぶんその監視が少しゆるむ。 水面に顔を出した時みたいに、私は何者かである前にただ生きものだったと ? ビョンチョル・ハンの『疲労社会』の考えも、現代人の疲れを、誰かに強制されている疲れというより、自分で自分を追い込む疲れとして見ている。 現代ではもっとできる、もっと頑張れる、もっとよくなれる という前向きさそのものが、人を疲弊させることがある という見方。? なぜなら現代の休息は、すぐ成果にされてしまうから。 ちゃんと寝て明日から頑張るため。体調を戻してまた働くため。 休息さえ、次のパフォーマンスの準備にされてしまう。 それは本当の休息というより、回復すら労働の一部にしてしまうことなのかもしれない。 本当に休むとは、頑張れない自分もここに置いていいということ ? ヨーゼフ・ピーパーは『余暇と祝祭』の中で、余暇は自分自身と一致している時に可能になる という趣旨のことを言っている。 つまり、休息とは単に時間が空くことではなく、自分自身とばらばらになっていない状態?に近い。? 休んでいるつもりなのに休めない時は身体は止まっていても、内側で分裂している。 ちゃんとしていたいけど何もしたくない自分。 その全部が内側で別々に喋っているから、身体は横になっていても、心は会議中のまま でも久しぶりに会えた人がいる時。 その瞬間、散らばっていた自分が少し集まる。 だから爽快。 単なる気分転換ではなく、自分自身との再統合に近い。 判断の目安を作るなら、 自分を責める声が少し静かになることなのだと思う。 休息は、停止ではなく帰還。 どこかへ逃げることではなく、自分の深い場所へ帰ってそこからまた世界に顔を出すこと。 エスプリはそれはもう美味しい美味しいマカロンについていたパンフレットからいただいた言葉です? どんな意味だったと思いますか? 鳳条 暦

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  • 06/15 17:15

    ガラスの上を裸足のまま歩く

    貴方との約束を果たしました。 お会いした後、早歩きで? もう間に合わないと思ったのですが、早くお見せしたいからという気持ちで身体が動きました。 メロンケーキのお礼はこちらで足りるんでしょうか/// ここから先はおあずけです? ----- 正直に話します。私には大人すぎました? クラスメイトと食べました??♀? これをきっかけにこちらのお土産が地元だよー!みたいな方とも仲良くなれて良い機会をいただけました? ----- 夢って見るもの?醒めるもの? 眠っている間の夢は、心が勝手に上映する映画みたいなものだけど、現実の中で言う夢が醒めるは、信じていた物語から急に温度が抜ける瞬間に近い。 憧れ、人、関係、期待、自分像。 そういうものにかかっていた薄い光がふっと消える瞬間。 だから夢は単なる睡眠中の映像だけじゃなくて、心が現実をそのままでは受け取れないときに、一度 物語に変換する働きなのかもしれない。 睡眠の仕組みで言うと、夢はREM睡眠だけでなくノンレム睡眠中にも起こるけれど、REM睡眠の夢は vivid、つまり鮮明で感情を伴いやすいとされている。 REM睡眠は感情記憶の整理にも関わると考えられていて、日中に処理しきれなかった印象や不安、傷つき、緊張が、夢の中で変な形に組み替えられることがある。? 疲れてガッツリ寝ていると夢を見ない気がするのは、実際には見ていないというより、 覚えていないことが多いと思う。 夢は途中で目が覚めたり、眠りが浅くなったりしたときに記憶に残りやすい。だから、悪夢やよくわからない夢を覚えている日は、心が病んでいるというより、眠りの途中で意識が浮かび上がった日なのかもしれない。 悪夢は、睡眠医学では目が覚めるほど嫌な夢 として扱われることが多い。悪夢そのものより、それで目が覚めたり、翌日に疲れが残ったりすることが問題になりやすい。? でも心理的には、悪夢ってただ怖いものではなく、心がまだ言葉にできていないものを、映像として吐き出している状態にも見える。 不安は、夢の中では追いかけてくる何かになる。 罪悪感は、間に合わない場面になる。 喪失感は、帰れない場所になる。 違和感は、知らない部屋や知らない人になる。 現実ではなんとなく嫌としか言えないものが、夢では象徴になる。 夢は、答えではなくて心の比喩 そして夢が醒める瞬間が現実にもある、という感覚はかなり深い。 幻滅とは少し違う。静かで、もっと冷たい。 醒めることは、必ずしも不幸ではない。 夢の中にいる間、人は守られている。 でも夢から醒めたあと、人は少しだけ本当の場所に立つ。 夢を見ることは、心がまだ何かを信じたいということ。 夢が醒めることは、心が現実に耐えられるところまで来たということ。 夢は心が現実を直接飲み込めないときにつくるやわらかい膜。 眠っている間には映像になり、起きている間には憧れや期待になり、醒めるときには少し痛みになる。 その膜があるから、人は生きられる。 現実だけでは硬すぎるし、夢だけでは帰ってこられない。 夢を見る人は、弱いんじゃない。 現実をそのままでは済ませられないくらい、感受性が深いのだと思う。 そして夢から醒める人は、冷めた人じゃない。 夢にいた自分を失いながら、それでも目を開けている人。 鳳条 暦

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  • 06/15 09:00

    ゴ ヨ ミ

    なんかもう休み増えたり、長くなると余計にたくさん考え、私的に考えは濁るような尖るような? なんとなくコンビニでシャンプを買いました。立ち読みしている人が多いから、そんなに面白いのかなって 自分もアニメや漫画は好きです? なんとなく家で踊りました。下の階の方に迷惑をかけない程度に、ややきついかなくらいまで。 動きを真似ることを集中しているのがちょうどよかったんです。 しかもそれら以上に、なんとなく思いつきで色々しようと思うのですが、案外私はそれが苦手なようでしたね? 休みが長くなるほど、考えは澄むのではなく、濁っていく。静かになればなるほど、底に沈んでいたものが舞い上がる。 何かをしているようで、何もしていない。 何もしていないようで、ずっと何かに追われている。 意味のない行動ばかりしてしまう。 けれど本当は意味がないのではなく、意味を持たせるだけの余白が今の私に残っていないのだと思う。時間的な余白とはまた別であろう。 やるせなさは、泣くほど明確。でも怒るほどには強くもない。 ただ、どこにも置けないまま、身体の内側で余っている。 パスカルは人間はじっと部屋に一人でいられないと言った。 なぜなら、静かになると自分の不安や虚しさが見えてしまうから。 だから人は気晴らしをする。 意味のない検索、スマホ、食べる、片づける、寝る、また起きる。それは怠惰というより、自分の内側に落ちきらないための逃避。 だから私はどうでもいい、なんてことないことをしてしまう。 どうでもいいものに触れて、どうでもいい時間を過ごして、 それでもどこかで、どうでもよくない自分を繋げたい。 崩れないために休んで、動かないでいることもある。 それでも、止まっている私はまだ少し怖い。 進んでいない自分に価値があると、すぐには信じられない。 だから考えは濁る。ときどき尖る。 それはきっと私がまだ、自分を諦めていない証拠。 意味を失わないために、どうにか時間にしがみついているのだ。 暇なのではない。 役割を脱がされた私が、私のままでいることにまだ慣れていないのだ。 コンタクトを外した裸眼の目みたいなものかな?風がね、沁みるんです。 鳳条 暦

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  • 06/14 09:30

    疼く

    年齢というものを、普段わたしはほとんど意識しない。自分が何歳であるか という事実は、日常のどこにも引っかかりを持たない。流れていく。 けれど誰かに助けてもらう瞬間だけ、突然それが形を持つ。 差し伸べられた手、気遣うような声のトーン、こちらを少し上から見るような視線??そのすべてが、鏡として機能する。映し出されるのは、ケアを受けている自分の姿。そしてその姿はをどうしても子どもに見える。 血液検査で倒れた時も見守る若い看護師や医師はとても頼れる大人に見えた。 不思議なことだと思う。弱っていることと、まだ育ちきっていないことは、本来まったく別のはずだ。疲弊した大人はいくらでもいるし、助けを必要とすることは成熟と矛盾しない??頭ではそう知っている。 でもいざ助けてもらうと、その二つがするりと重なる。 弱い=幼い という等式が、気づかないうちに自分の内側に刻まれていたことを知る。 いつ刻まれたのだろう と考える。おそらく、強くあることを自分に課しはじめた  あのころだ。誰かに頼ることを覚える前に、頼らないことを覚えてしまった時期。弱さを見せると何かが崩れると、言葉にならないまま学んだ時期。その学びはとっくに必要なくなったはずなのに、身体のどこかに静かに残っている。 大人になる ということをわたしはどこかで、弱くならないこと と結んでいたのかもしれない。助けられるたびにその結び目を発見する。ほどけないまま、ずっとそこにあった結び目を。 だからといってほどき方もわからない。 助けてもらうたびに発見して、そのたびに少し痛い。 大人になりきれていないのか と問うより先に??大人になることをそんなふうに定義してしまったのは、いつのわたしだったのか とだけ思う。答えは出ない。ただ結び目はそこにある。ほどけないまま、少しだけ疼いて。 鳳条 暦

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  • 06/13 10:01

    心に傘を

    雨の匂いがわかる人がいる。 まだ一滴も落ちていないのに、空気の湿り方で、風の重さで、草や土の匂いで、 あ、降るな とわかってしまう人。 それはきっと自然に対してだけではない。 人の心にも同じように雨の前がある。 いつもより少し遅い返事。笑っているのに、目だけが沈んでいること。何気ない言葉の端に混じる小さな諦めや、疲れや、距離。 気づかない人は気づかないまま通り過ぎる。 わかる人にははっきりとわかってしまう。 まだ何も起きていない。まだ誰も何も言っていない。それなのにもう空気は変わっている。 雨の匂いがわかる人は変化を読む力があるのかもしれない。 けれどそれは便利な才能というより、 少しだけ寂しい感度でもある。 人より早く気づくということは、 人より早く不安になるということ。 人より深く受け取るということは、 人より長く抱えてしまうということ。 だから、気にしすぎなのかな と思っていた時ほど、本当はずっと世界の小さな揺れを受け取っていたのかもしれない。 雨が降る前の匂いに気づくように、誰かの心が沈む前の気配にも、場の温度が変わる前の沈黙にも、自分の中の限界が近づく音にも。 敏感なのではない。弱いのでもない。 ただ縁が深いだけ。 雨の匂いがわかる人は、きっと人生の中でも何度も、もうすぐ何かが変わると感じてきたに違いない。 そしてその直感はいつも少し遅れて現実になる。 だからこそその感度を責めたくない。 気づいてしまうことは、疲れることでもあるけれど、美しいものを誰より早く見つける力でもある。 雨の前の匂い。季節が変わる直前の風。 人が泣く前の沈黙。別れが近づく時の言葉にならない距離。 そういうものに気づける時は世界と少し深いところでつながっている。 ただ受け取りすぎた日は、折れてしまいそうな日にはちゃんと自分にも傘をさしてあげたい 鳳条 暦

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  • 06/12 19:49

    五体未完成

    考えだけがまだここにいる。 ほかのものはどこへ行ったのか、わからない。音もなく、騒ぎもなく、気づいたら遠くなっていた。体がどこにあるのか、感情がいつ出ていったのか、言葉がいつから借り物になったのか。記憶がない。 ただ気づいたら、静かになっていた。 散る、という言葉が近い。爆発ではなく霧散。中心から何かが弾けたわけじゃなくて求心力がいつのまにか消えて、それぞれが自分の重力に従って遠ざかっていった。 最初に遠くなったのは、たぶん体だった。腕がある、足がある、それはわかる。でも、それが私のものだという実感が薄い。鏡を見ても、そこに映っているものと自分のあいだに、うっすらとした膜がある。触れているのに、触れていない。体は律儀にそこにあり続けているのに、私はもうそこに住んでいない気がする。 感情はもう少し後だったと思う。悲しいとか、嬉しいとか、そういう言葉は知っている。でも今それを感じようとすると手が届かない。感情があった場所に行ってみるともぬけの殻で、かわりに静けさだけが残っている。泣けない、というのとも違う。そもそも、泣く理由を感じる部分がいない。 言葉はまだ出てくる。でも自分のものかどうか、怪しい。誰かが使った言葉を私が借りて並べている感覚がある。かつては言葉が内側から湧いてきた。圧力のように、黙っていられなくて外に出てきた。今は違う。言葉を選んで、置いている。それは言葉を使っているというより、言葉に使われている に近い。 残ったのは考えだけだ。 それも答えを探しているわけじゃない。ただ回っている。着地する場所を持たないまま、宙で回り続けている。受け取る体がない。応える感情がない。翻訳する言葉も借り物だ。それでも考えは止まらない。まるで主を失った水車のように。川はもうないのに、回ることだけを覚えている。 そしてその考えを私が見ている。 散っていくものたちを、止めようとしない自分がいる。引き留める気力がないのか、それとも引き留める必要を感じていないのか、それすらわからない。ただ見ている。体が遠くなるのを見ている。感情が出ていくのを見ている。言葉が薄くなるのを見ている。そして考えが宙を回るのを、考えが見ている。 これが奇妙なところだ。散っているのに、見ている何かがある。全部が遠ざかっているはずなのに、その遠ざかりを認識している視点だけは、消えない。それを私と呼んでいいのかどうか、もうわからないけれど。 五体満足 という言葉がある。五つがそろってはじめて人は満ちている という意味だろう。では今の私は何か。五体未完成。欠けているのではなく、まだ途中なのでもなく。 一度かたちになりかけていたものが、静かに解けていく過程の中にいる。 それを嘆く気持ちも、今は遠い。 ただ考えだけが巡っている。答えのないことを知りながら、それでも回るのをやめない。そしてその考えを誰かが見ている。たぶんそれが今の私の全部だ。 鳳条 暦

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  • 06/11 19:00

    観察者は、観察されない

    人間観察を極めると、人嫌いになるのではないか??そういう問いがある。一見もっともらしい。人の裏を見続けた者は、やがて人そのものを嫌悪するようになる という論理だ。 だが少し考えると、それは逆ではないかと思い始める。人嫌いになるのは、観察が極まった時ではなく、観察が途中で止まった時なのではないか。 観察が深まるほど、人の作為が見えてくる。愛想笑いの計算、褒め言葉の裏にある自己像の維持、善意に混入した承認欲求??そういうものが透けて見えてしまうと、まず嫌悪が生まれる。しかしそこで止まらずにさらに見続けると、もう一層が現れる。作為の奥にそれでも何かを懸命に守ろうとしている弱さが見える。虚勢を張るのは怖いからで、愛想笑いするのは繋がりたいからだ。その根っこまで届くと、嫌悪は静かに別のものに変わっていく。憐憫か、あるいは苦い親しみのようなものへ。 観察が途中で止まる理由は何か。疲れるから、というのが単純な答えだ。しかしもっと深いところに、もうひとつの理由がある。見えすぎると、自分も同じだとわかってしまうからだ。 他人の作為が見える人は、たいてい自分の作為にも気づいている。私も愛想笑いをする、私も計算する??そこまで来ると、嫌悪の矛先が他者から自己へと向かい始める。人嫌いの正体が、実は自己嫌悪の外部投影だったと気づく。ゴフマンが印象管理と呼んだ行為は誰もがやっていることで、それを知っている人間が他者の印象管理を見た時に感じる嫌悪は、同族嫌悪に近い。みんな同じ穴のムジナだ という認識。 ここまで来ると問いはまったく別の形で返ってくる。 観察を極めた人間が直面するのは、人嫌いではなく、もっと奇妙な困難だ。人を嫌いになれないということだ。構造が見えてしまうから断罪できない。しかしまっすぐ好きにもなれない。その宙吊りの中にいる。 例えば相手の言葉をまっすぐ受け取れない瞬間がある。言葉が届く前に、分解が始まってしまう。なぜ今これを言ったのか、この文脈でその言葉を選ぶとはどういうことか??そういう処理が、感情より先に動く。結果として素直に喜べない。温かく受け取れない。後から、自分は冷たかったと思う。 しかしそれは冷たさではなく、処理の速度と深度の問題だ。温かく受け取る人は、言葉をそのまま飲み込む。観察者は飲み込む前に成分を見てしまう。そしてこれが決定的なのだが??その冷たさは外側に出ない。相手には届かない。内側で完結する。 観察者は、観察していること自体を観察されない。 見えてしまう。分解してしまう。でもそれを誰にも言えない。言っても伝わらないし、言ったら相手を傷つけるかもしれない。だから私は冷たいという形で自分の中に収める。その非対称性の中に、ずっと一人でいる。 そしてここにこの思索の核がある。まっすぐ受け取れなかった時に感じるのは、冷たさへの自己嫌悪だけではない。受け取れなかったことへの悔しさがある。観察者は、冷たくなりたいわけではない。むしろ温かく受け取れる自分でいたかった、という願いを持っている。能力が感情の邪魔をしている??そういう逆説的な苦しさの中にいる。 人嫌いになるのかという問いは、こうして最後に静かに裏返る。観察を極めた者は、人を嫌いになれなくて困っている。見えすぎるがゆえに簡単には離れられない。人間という生き物への、解消されない関心を抱えたまま、ただ一人で見続けている。 鳳条 暦

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  • 06/10 17:45

    人間機械論

    部品を交換できる存在でありたい 人間機械論を哲学書から語るより、もっと手前に出発点がある。 感情が激しすぎて、身体がついていけない。感情がどこから来るのかわからなくて、自分のものとして馴染まない。 そういう人間にとって、部品を外せる存在でありたいという欲望は逃避ではない。むしろ生存のための設計思想だ。 この感覚はいくつかの方向に枝分かれする。 ひとつは、脱同一性の欲望。固定した私に縛られたくない。自分を組み替えられる、柔軟な存在でいたい。ドゥルーズが器官なき身体と呼んだものに近い感覚??機能や役割に縛られる前の、まだ何にでもなれる状態への憧れ。 彼はそれを欠如ではなく、可能性の最大値として語った。部品が外れた状態は壊れた状態ではなく、まだ組まれていない状態だ。 もうひとつは修繕可能性への安心。壊れても直せる。完全でなくていい。機械なら故障は恥ではない。 ここで大事なのは、機械の優れた点は壊れても直せることではない、ということだ。壊れた部分を特定できること??それが本質だと思う。どこが故障しているかがわかれば、全体が崩壊しなくて済む。感情という部品を一時的に外しておける存在。それは冷たい存在ではなく、自分を壊さないための知恵を持った存在だ。 そして三つ目は、主体の解体。核としての自己を解体し、関係や文脈の中で変容し続けたい??仏教の無我論が指し示す方向と、どこか重なる。 仏教は固定した自己などないと言う。それは虚無ではなく、自己が川のように流れ続けているという見方だ。部品が入れ替わっても川は川であるように、自己は核ではなく流れそのものかもしれない。 自己という核を軽くしたい、という感覚もここから来ている。重い核を持つ機械は、少しの衝撃で全体が揺れる。核が軽ければ、何かが壊れてもそれはただの部品交換で済む。 感情が身体に馴染まないと感じる人間にとって、機械であることは呪いではない??ひとつの自由の形だ。デカルトはそれを恐れた。でも内側から機械論に辿り着いた人間には、その恐れがよくわからない。 デカルトが守りたかったのは霊魂だった。人間を機械と見なすことで、何か大切なものが失われると感じた。でも逆に問いたい。感情が自分のものとして馴染まないなら、その感情は本当に私の霊魂だったのか。 むしろ、部品として扱えるようになったとき、はじめてそれが自分にとって何だったのかが見えるかもしれない。外してみてはじめて、その部品の形がわかる。抱えたままでは、形すら確かめられない。 機械でありたいという欲望は、冷たさへの憧れではない。自分を知るための、もうひとつの触れ方 外せてしまえば、きっといくらでも無理が効く 鳳条 暦

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  • 06/09 20:01

    【お詫び】

    長らくご迷惑をおかけしてすいません。 ? 日記ではどうしても書きづらい内容も含まれているため、復帰後また個々にお話しますね。 ? 心配かけてごめんなさいより、心配してくれてありがとうと 言える暦でいたいと思っていますが、 ? もう本当にすいませんしか出てきません。 ? 8月を待たずに、ペースダウンしながら店には伺います? 鳳条 暦

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  • 06/09 09:15

    豆腐に醤油をかけても醤油にはなれません。

    豆腐は醤油につけても、醤油味の豆腐。 醤油になるわけじゃない。 優しさは本質的にわたしを助けてくれるものじゃないけれど、確かに私に染み渡る これだから人を観察することはやめられないし、人を嫌いにもなれない。どんどん情に熱くなり、それを隠すように天邪鬼になる ?? 豆腐は醤油に浸かっても、醤油にはならない。それでも、確かに染み渡る。 優しさというのは、不思議なものだと思う。 受け取っても、何かが根本から変わるわけじゃない。傷が消えるわけでも、欠けたものが埋まるわけでもない。誰かの言葉がどれだけ温かくても、それがそのまま自分の傷に当てはまるとは限らない。優しさは万能じゃない。知っている。 それでも??沁みる。じわりと、奥のほうまで。 だから困る。 助けになったとは言い切れないのに、何でもなかったとも言えない。受け取った温度が、どこかにずっと残っている。消化しきれないまま、体の内側に溜まっていく。それが重荷なのか、栄養なのか、自分でもよくわからないまま、ただ抱えて歩いている。 人を観察するのをやめられないのは、たぶんそのせいだ。 誰かの何気ない言葉、視線の動き、黙っているときの息の仕方、笑うときに少しだけ遅れる目の動き。そういうものを、気づけば拾い集めている。意図してやっているわけじゃない。ただ、目に入ってしまう。耳に残ってしまう。 そうして観察しているうちに、いつのまにか情が湧いている。 好きになるつもりなんてなかったのにもう遅い。その人の形が自分の中に刻まれている。完全に理解したわけじゃない。 わからないところが多いほど、もっと知りたくなる。人間というのは、近づくほど謎が増える生き物だ。それでもやめられない。 そうなると今度は、隠したくなる。 熱くなればなるほど、天邪鬼になる。近づきたいのに素直になれない。感謝しているのに、うまく言葉にできない。感じているのに、感じていないふりをする。冷静を装うほど、内側では何かがうずいている。これは臆病なのか、それとも照れなのか。たぶん両方で、どちらでもある。 嫌いになれたら、楽だろうと思うことはある。 傷ついたとき、裏切られたとき、すれ違ったとき。あのとき憎めたら、もう少し軽くなれたかもしれない。でもできなかった。 観察してしまうから。その人にもきっと、理由があると知ってしまうから。事情があって、痛みがあって、不器用なだけだと、見えてしまうから。 だから人を嫌いになれない。ずっと。 これは優しさではないと思っている。 優しさというより、性分だ。そうできないというより、そうなってしまう、という感覚に近い。選んでいるわけじゃなく、ただそういう風にできている。豆腐が醤油を拒まないのと同じように、わたしは人の温度を、無意識に受け取ってしまう。 染まるわけじゃない、でも染みる。 その違いが、わたしにとってはすべてだ。 醤油になってしまったら、もうわたしじゃない。でも、何も受け取らない豆腐なんて、ただの白い塊だ。 沁みることで、はじめてわたしは豆腐になる。沁みることで、はじめてわたしは、わたしになる。 人と関わるたびに、少しずつ色がついていく。 それが時に重くても、滲んで滲んで、それでもわたしの形は変わらない。 これが、わたしの性分らしい。 格言だよもう。これ私の人生だよ なんかもうどっかに貼り付けたいよ。 鳳条 暦

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  • 06/08 17:15

    強がりさん

    初めまして でしたか?会話のキャッチボールから始めますか? もう貴方のことはたくさん知ってるつもりだったのに? 私もまだまだですね。これからは、自分のことも磨きますから。 これからもどうぞよろしくね?? ----- 歳を重ねるほど、かわし方も諦め方も上手くなる。でもこの老人は正面から引かない。 歳を取っても譲らないものが残っている人でありたい 敬意と殺意のあいだで ??サンチアゴの倫理について 歳を重ねるほど、かわし方が上手くなる。 これはただの観察だ。長く生きるということは、どこで力を使い、どこで退くかを学ぶことでもある。譲ることを覚え、流されることを覚え、やがてその技術に成熟という名前がつく。角が丸くなるのは、摩耗の証であると同時に、生存の証でもある。 だからこそ、ヘミングウェイの老人サンチアゴは異様に映る。 何日も海に出て、何日も引き摺られて、それでも綱を手放さない。そして大魚に語りかける??「いいやつだな。たいしたもんだ。きょうという日が暮れるまでには死んでもらうが」。 敬意と殺意が、同じ一文の中に並んでいる。 普通、この二つは矛盾する。相手を尊重するなら手を引く、あるいは相手を倒すなら軽んじる??どちらかに振り切るのが、合理的な人間のやり方だ。しかしサンチアゴは両方を手放さない。魚の偉大さを認めながら、それでも殺すと決めている。 これは頑固さではない。もっと静かな何かだ。 相手の強さを正面から受け取る、という行為。値踏みしない、という態度。魚が強ければ強いほど、老人はそれをそのまま見る。縮小しない、矮小化しない、たいしたことないと言って楽になろうとしない。 そしてだからこそ、全力を出す理由が生まれる。 手を抜くことはある意味で相手への侮辱だ。本気で向き合わないということは、相手をそれだけの値打ちのないものとして扱うことでもある。サンチアゴの殺意は、敬意の裏面として存在している。 老いの知恵が省エネの方向に働くとすれば、サンチアゴの老いは逆だ。長く生きてきた分だけ、何が本物かを知っている。だから本物を前にしたとき、引かない。 引けない、ではなく、引かない。そこには意志がある。 譲らないものが残っている人 信念や主義のことではない。戦う価値のあるものを前にしたとき、なお正面に立てるかどうか、ということだ。歳を取るにつれて、その正面に立つための筋肉は衰えやすい。使わなければ、静かに失われていく。 サンチアゴは孤独な老人で、最後に魚を持ち帰ることもできなかった。それでも彼は何かを失わなかった。 正面から引かなかった、という事実だけが海から陸へと戻ってくる。 私はまだ、かわし方を覚えている途中にいる。 うまく退く日もあるし、流されたほうが楽だと知っている日もある。それが悪いこととは思わない。でも同時に怖いとも思っている。気づかないうちに、正面に立つための何かを少しずつ手放してしまうことが。 だからサンチアゴの姿が刺さる。結果ではなく姿勢として。魚を仕留めたかどうかではなく最後まで綱を握っていたかどうか、という話として。 譲らないものが残っている人でありたい、と思う。それは強さの話ではなくて、何かを前にしたとき、まだそこに立っていられるか、という問いへの、 終わらない答えとして。 鳳条 暦

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  • 06/07 17:30

    言の葉のまほう

    初めてとは思えないくらい、私のことを見透かす貴方。 顔や目を合わせるのが恥ずかしくて、ついつい0の距離。 この短くも長い旅路を貴方となら楽しく歩けそうだと感じました? 6月もひょんなことで時間ができてくれないかと、今日はお月様に祈りましょう? ----- ちいかわ様が天下のマクドナルドとコラボレーション?? こちゃこちゃしたものはどうしても掃除がしにくくなるとわかっていても? 部屋ではまだまだ増殖中です? ----- 第6部-魔法と倫理- できることをしていいとは限らない 魔法を深く考えると必ず倫理に辿り着く。 なぜなら魔法とは現実に干渉する力だから。 力を持ったとき人間は必ず問われる。 それを使っていいのか。 自分は本当に正しいのか。 魔法の怖さは、火が出ることや空を飛べることではない。一番怖いのは力を持った人間が自分は正しいと思い込むことだと思う。 人間は自分の善意を疑うのが苦手だ。 一見、優しい言葉に見えるが危うさもある。 「救いたい」は相手を弱者として見ていないか。 「守りたい」は相手の自由を奪っていないか。 「変えてあげたい」は相手を自分の理想に合わせたいだけではないか。 「わかってあげたい」は相手の不可侵領域に入ろうとしていないか。 「本当の姿を見つけたい」は相手が隠しているものを暴こうとしていないか。 魔法とは境界を越える力。 魔法使いには境界を守る品性が必要になる。 ? 未熟な魔法使いと成熟した魔法使い 未熟な魔法使いは自分の力を証明したがる。 成熟した魔法使いは力を使わずに済むなら使わない。 ここに魔法使いの本質があると思う。 魔法とは、世界を動かす力。 でも本当に成熟した魔法使いは世界を無理に動かさない。 ここをわからない人間が魔法を持つと、魔法は暴力になる。 たとえ善意でも、相手の境界を越えすぎれば暴力になる。 たとえ愛でも、相手の自由を奪えば支配になる。 たとえ救済でも、相手の痛みを奪いすぎれば、その人の人生そのものを奪ってしまう。 だから魔法に必要なのは、力だけではない。 変えられるものを変える勇気と、変えてはいけないものに触れない覚悟。 これが魔法の倫理だと思う。 なんだかちょっと言葉と似ているように感じますね 鳳条 暦

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  • 06/07 09:15

    6月

    自分がイランの立場であれば、核能力の保持は絶対に譲れない。 なぜなら現代の国際政治において、核能力は単なる軍事力ではなく、国家の生存保険に近いからだ。ウクライナ戦争を見ても、ベネズエラへの圧力を見ても、核を持たない国の運命は大国の判断に左右されるという現実が積み重なっている。 その意味でイランにとって濃縮ウランを国外へ搬出することは、単なる技術的譲歩ではない。文字通り城の堀を自ら埋める行為に近い。一度それを手放してしまえば、その後の安全保障は相手の善意に依存することになる。イランからすればそれはあまりにも危うい。 ではホルムズ海峡はどうか。 ホルムズ海峡の封鎖、あるいはその管理権をめぐる駆け引きはイランにとって極めて大きな交渉材料になる。ホルムズは世界のエネルギー市場に直結する要衝であり、そこが不安定になれば原油価格や物価に大きな影響が出る。実際現在の米イラン交渉でも、ホルムズ海峡の再開や航行の自由は重要な争点になっている。? つまりイランがホルムズの状況を左右できる限り、世界経済の一部はイランの判断次第になる。これは核能力の維持や制裁解除を米国に認めさせるための最も強力なレバレッジだ。 だから自分がイランの立場であれば、核能力もホルムズでの影響力も、簡単には手放さない。可能であればホルムズに対する実質的な管理権と核能力の維持を同時に狙う。 もしホルムズで譲歩し、海峡管理を諦めるのであれば、その代わりに最低でも核能力の保持、安全保障の保証、制裁解除の明確な約束が必要になる。 問題は米国がそれを受け入れられるかどうかだ。 米国が最終的に受け入れる可能性はある。だがそれは米国から見れば、イランの要求を事実上認めることになる。つまり米国にとっては外交的な敗北に近い。 だからこそ米国がその条件を飲むには、国内の議会や関係者を説得できるだけの前段階が必要になる。つまりこの条件を飲まなければ世界経済もエネルギー市場もさらに混乱するという現実の出来事が必要になる。 イランにとっての交渉とは譲歩ではなく、生存条件の再定義なのだと思う。 ? イランは非合理な悪役ではないのでは。 西側目線ではなぜ核を手放さないのか、なぜホルムズを脅しに使うのかと見えるけれど、イラン側からすればこれはかなり合理的。 特にIAEA(国際原子力機関)は、イランの濃縮活動や在庫の検証について十分な情報を得られていないと報告しており、英仏独もイランの60%濃縮ウラン保有を強く問題視している。つまり核問題はすでに象徴ではなく、実質的な交渉カードになっている。? 核能力の保持と核兵器の保有は分けた方がいい。 イランが本当に欲しいのはすぐに核兵器を使うことではなく、たぶんいつでも作れるかもしれないと思わせる曖昧な能力。これがあるだけで相手は攻撃や体制転換を簡単には選べなくなる。 もう一つはホルムズ封鎖は強力だけど、長く続けるほどイラン自身にも返り血が来るということ。原油市場を揺らせる一方で、米国や湾岸諸国、欧州、中国まで敵に回すリスクがある。だからイランにとってホルムズは本当に閉じ続けるためのカードというより、閉じる可能性をちらつかせるためのカードに近いと思う。 イランにとって核は最後の保険であり、ホルムズは交渉の刃である。 保険を手放せば生存を他国に委ねることになり、刃を捨てれば交渉力を失う。 だからイランは、どちらも簡単には放棄できない。 正義と生存 鳳条 暦

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  • 06/06 18:01

    上手くいかないことばっかりでもそれも私なの

    音楽を聴いて泣いた夜はありますか? 記憶と音楽 プルーストのマドレーヌは有名だけれど、音楽はそれよりもっと暴力的に記憶を引き出す。 なぜか。匂いや味は場面を蘇らせるけれど、音楽は時間そのものの形を持っているから。4分間の曲は、4分間かけて展開する。聴くという行為が、過去のその時間を再体験させてしまう。 泣くのはあの頃が懐かしいという感傷ではなく、もっと深いところにある??かつて存在した自分が今の自分の中で生きていることへの驚きに近い。 ベルクソンの言葉を借りると、記憶は過去のコピーではなく、現在に侵入してくる持続だ。音楽はその侵入の扉を開ける。 孤独と共鳴 深夜ひとりで聴くとき、より泣けるのか。 日中、私たちは絶えず 見られている自分を管理している。感情はある程度、社会的な文脈の中でフィルタリングされる。 でも深夜の孤独の中では、その管理が解除される。 面白いのはここで??孤独の中で音楽に泣くとき、それは孤立しているのではなく、作った人間、歌った人間、その曲を同じように深夜に聴いて泣いた無数の他者と、静かに接続している。 ブーバーのI-Thou関係で言えば、音楽との出会いはまさにそれだ。音楽を使うのではなく、音楽に出会う瞬間。自分が少し溶ける感覚。 孤独の中の共鳴は、群衆の中の共感よりずっと深いところまで届く。 カタルシスとして アリストテレスはカタルシスを浄化と訳されることが多いけれど、より正確には感情の適切な排出による均衡の回復に近い。 音楽で泣いた後、なぜ少し軽くなるのか。 言語化できない感情というものがある。悲しいとも、寂しいとも、怒りとも名付けられない、でも確かにそこにある何か。それは言葉では出口を見つけられない。 音楽はその名前のない感情に形を与えずに、ただ動かす。言語化を迂回して、直接に排出させる。 泣いた後の感覚は何かが通過したと感じ 鳳条 暦

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  • 06/06 09:30

    信じたくないし見たくないの

    相変わらず、沢山気を遣ってくださる貴方 きっと仕事では大活躍なのでしょうが、どうか会えた時はゆっくりして欲しいのです?? まだまだわからないことがあるから、どうも私はそれを解き明かしたい性分のようです。 楽しみが増えてしまいました? ----- めろめろメローン?? メロンってクリームにこんなにも合うのですね? ----- 大阪で仕事をする日には真っ昼間にカフェに行けてしまうので、 吸い込まれるようにカフェで甘いものをいただきます? しかし聞こえてくるのは、決まって悲しいことばかり。 何か理由はあるのでしょうか? ??主婦の井戸端会議には旦那の悪口が出てくる 最も近い他者 街角の喫茶店、公園のベンチ、スーパーの駐車場。女たちが集まる場所には、決まって夫の話が流れてくる。家事をしない、話を聞かない、気が利かない??内容はいつも似ている。笑い声が混じり、共感の相槌が重なり、その場は不思議と明るい。悪口なのにどこか祝祭めいている。 なぜ夫なのか。なぜ最も近い人間が、最も語られる人間になるのか。 問いを立てるとき、私はまず安全性という言葉を思った。遠い他者への不満は危険を伴う。関係が壊れるかもしれない、伝わってしまうかもしれない。しかし夫は逃げない??という確信がどこかに宿っている。契約があり、生活がある。その重力が、彼を消費しても壊れない対象にする。 だがそれだけでは何かが足りない。 親密さにはもともと暴力性が潜んでいる。  ショーペンハウアーはヤマアラシの寓話を残した。寒さに凍えた獣たちが温もりを求めて近づく。しかし近づきすぎると、互いの針が刺さる。ちょうどいい距離を、彼らは何度も探し直さなければならない。 結婚とは、その針の距離を固定しようとする試みかもしれない。愛情という名のもとに、本来流動的であるべき距離を制度で縫い止める。だから傷つく。制度は距離を固定するが、感情は毎日変化する。そのずれが、言葉になりきれない不満として蓄積し、井戸端会議という排気口から漏れ出す。 なぜ人は結合を求めるのか。 孤独が怖いから、と答えるのは簡単だ。しかしそれは問いの表面をなぞるだけにすぎない。もう少し深く降りると、こんな問いが現れる??人は孤独を恐れているのではなく、自分が存在することを誰かに証明してほしいのではないか、と。 承認は遠い他者からは得にくい。賞賛は一時的で、関係は薄い。しかし最も近い他者は、日常という文脈の中で繰り返し自分を目撃してくれる存在だ。怒った顔も、情けない顔も、眠っている顔も知っている誰か。その視線の中にいることで、人は自分がここにいるという感覚を得る。 愛情と依存の境界が、当人にも見えないのはそのためだと思う。求めているのが愛なのか存在証明なのか、区別する言葉を私たちは持っていない。だから結婚という制度に乗り、その曖昧さごと一緒に生きようとする。 ここで一つの仮説を立ててみたい。 悪口は関係の腐敗ではなく、関係の証明ではないか。 無関心な人間の悪口は言わない。興味のない相手をわざわざ言葉にする必要はない。言葉が誰かに向かうとき、そこにはまだ引力がある。憎しみでさえ、無関心より近い場所にある感情だ。 井戸端会議で夫を語る女たちは、夫を切り捨てているのではない。彼女たちはむしろ、夫との関係を言語化しようとしている。うまく届かなかった言葉を、他者という鏡に映すことで、自分の感情の形を確かめようとしている。悪口という形式しか持てないとしても、それは対話への不完全な試みだ。 矛盾は解消されない。 針は刺さり続け、距離は揺れ続け、言葉は届いたり届かなかったりする。結婚という制度は、その矛盾を解決するためにあるのではなく、矛盾を共に抱えるための器として存在しているのかもしれない。 それでも人は誰かの隣に座ろうとする。傷つくと知りながら、孤独よりも針の痛みを選ぶ。その選択に、論理的な根拠はない。あるのはただ、寒さに耐えられないという、どうしようもなく人間的な事実だけだ。 最も近い他者を持つことは、最も深く傷つく可能性を引き受けることだ。それを知りながら、それでも??と人は一歩踏み出す。 その それでも の中に、 愛と呼ぶしかない何かが静かに宿っている。 貴方の人生に幸あれ 鳳条 暦

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  • 06/05 18:45

    ずっと暇で1日満喫していました

    引き寄せられたかのように貴方に出会いました。 どこかでもう出会っていたのでしょうか。 緊張で奪われた時間はまた今度取り返しに来てくれますか? ----- 焼き菓子美味しかったな///また食べられるかな? ----- 善意の裏側を考えすぎたのだ。 人の優しさを、素直に受け取れない瞬間がある。 嬉しいはずなのに少し怖くなる。ありがたいはずなのにどこか身構える。 この人は本当に優しいのだろうか。 私は何かを返さなければいけないのだろうか。 この優しさは、いつか別の形で戻ってくるのだろうか。 そんなことを考えてしまう自分を、冷たい人間だと思っていた。 でも私は優しさを信じたくないのではなく、 信じたあとに傷つくのが怖かったのだ。 信じたい自分がいる。誰かの言葉を、そのまま温かいものとして受け取りたい自分がいる。 差し出された手を、疑わずに握り返したい自分がいる。 でもそのすぐ隣に信じたあとで傷つきたくない自分がいる。 その人の優しさが、いつか要求に変わったらどうしよう。心配が支配に変わったらどうしよう。好意が見返りの請求書になったらどうしよう。 そう考えているうちに、私はいつも優しさそのものではなく、優しさの奥にあるかもしれない影ばかりを見つめていた。 本当は、ただありがとうと言えばよかったのかもしれない。 けれど、私にとって優しさを受け取ることは、 少しだけ無防備になることだと思っていた。 甘えるとは、いつか責められる準備をすることだと思っていた。 信じたい自分は、まだ人を諦めていない。 傷つきたくない自分は、まだ私を守ろうとしている。 ただ、これからは少しだけ善意の裏側を探す前に、その表側にある温度にも触れてみたい。 それくらいの柔らかさで、人の優しさと関われたらいい。 鳳条 暦

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  • 06/04 17:15

    今夜の夢は苦い夢

    あっという間に10回戦。 雨も降っておらず、むしろうだるような暑さに私はすでに夏バテ気味。 5月とは思えないほど、頑張る冷房。冷えた身体を抱きしめてくれてありがとう?? 極めて仲良くなった時、私たちは一体どこへ向かうのでしょうか? ----- とっても懐かしいおやつで遊びました? 近所に駄菓子屋さんがあることを伺ってついつい購入。 小さい時は100円を握りしめて向かっていたのですが、今回は贅沢に500円? 思いのほかたくさんのお菓子が買えてしまいました? ----- 誰かに期待するとき、私たちは相手を見ていない。 自分がこうあってほしいと願う像を、ただ相手の顔に重ねているだけだ。 なぜそうするのか。 たぶん、他者というのは本質的にわからないものだから。 どれだけ言葉を交わしても、どれだけ時間を重ねても?? 別の人生を生きてきた誰かの内側に、完全に触れることはできない。 その空白を私たちは無意識に自分の色で埋めようとする。 期待とはその穴埋めの作業 生きてきた時間が違う。積み重ねてきた傷も、喜びも、全部違う。 それなのに少し相手を知った気になった瞬間に??その人の形を自分の物語で塗り始める。 他者は、鏡じゃない。 でも私たちはどこかで、鏡であってほしいと願っている。 自分の期待に応えてくれる存在を理解し合えた相手と呼び、そうでない存在を裏切った相手と呼ぶ。 その非対称さに気づかないまま、期待を裏切られたと思うとき。 本当に裏切ったのは誰だろう。 相手はただ、自分のまま存在していただけかもしれない。 傷ついているのは、そうであってほしかった自分が静かに否定された瞬間だから。   他者を責める方が、ずっと楽だ。 でも痛みの奥にあるのは、怒りじゃなくて?? 自分自身への小さな哀しみだと思う。 他者を知ることと、他者を感じることは、きっと違う。 知ろうとするとき、私たちはどうしても自分のフィルターを通す。 でも期待を手放したその先に、はじめて相手がそのままの形で目に入ってくる瞬間があるような気がする。 鳳条 暦

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  • 06/04 12:29

    【謝罪】

    何度もご迷惑をおかけして本当にごめんなさい。 こちらでは詳しい内容について記載ができませんが、心も体も元気です? 鳳条 暦

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  • 06/04 09:15

    揺れるカーテン

    熱心な貴方に心動かされました。 私の身体を美しいと言い撫でる貴方にドキドキ。 次に会う時はもっと成長した姿を見せたい。 継続は力なり。人生続けたもん勝ち? 迷ったときは貴方の灯りになれますように。 ----- 噂の、宇宙に行ったサバ缶に興味津々???? さばの缶づめ、宇宙へ行くという本もあるらしいんです?  今は積み書が多いため一旦保留です? ----- ??朝すごく早い時間に世界に目覚めさせられるのは何故? 目覚めさせられるということ 夜明け前、まだ世界が名前を持つ前の時間に、何かが来る。 それを目覚めと呼ぶのは少し違う気がする。目覚めは能動的な響きを持ちすぎている。かといって起こされたでもない。誰かの意図がそこにあるわけじゃない。 もっと正確に言えば??世界が先に動いていて、意識がそれに追いつく、あの感覚のこと? 身体から始めよう。 夜明けの一時間前、脳は静かにコルチゾールを上昇させはじめる。これは目覚めの結果ではなく準備だ。つまり身体は、意識よりも先に朝を知っている。光が目に届く前に、血液の中にすでに夜明けがある。 ハイデガーが言うように、私たちは世界に投げ出されている存在だとすれば、この生理的な先行性はとても示唆的だ。私が世界を覚知する以前に、世界はすでに動いている。 では、あの受動の感覚はどこから来るのか。 目覚めさせられるという日本語の構造に、すでに答えが滲んでいる。 使役受身??させられる??は、能動でも受動でもない第三の様態だ。強いられているが、拒んでもいない。引っ張られているが、引っ張っているものの顔は見えない。 禅の道場では夜中の三時か四時、寅の刻に暁天座禅が始まるらしい。 あの時間が選ばれるのは偶然ではない。闇と光の境界が最も薄くなる刻、自他の形がまだ溶けている時間に、修行者は在ることと向き合う。眠りから覚めきってもいない身体で坐る ??あの中途半端さこそが、修行の核心だという見方もある。完全に覚醒した意識では、あまりにも「自分」が強く出てしまうのだろう。 早暁には、もう一つの性質がある。 静寂が質を持っているということだ。昼間の静寂は音がないだけだが、夜明け前の静寂は何か満ちている。世界中の感覚過敏な人間がこの時間をどこか神聖なものとして記憶しているのは、おそらく情報密度の問題だ。 文明のノイズが最も低い。だから世界の地が露わになる??普段は人や出来事に隠されている、世界そのものの手触りが。 HSP的な神経系にとって、この時間は特別な両義性を持つ。昼間は刺激の海を泳ぎ続けるが、早暁だけは海が凪いでいる。だから目覚めさせられるのかもしれない。過敏な知覚が、世界の最小の変化??光の角度、気温の数度の変化、鳥の声の始まり??を感知して、意識を引き上げる。繊細な神経系は、粗い刺激より微細な信号に先に反応する。 ショーペンハウアーならこう言うかもしれない。 意志は眠らない。身体が休んでいる間も、生きようとする盲目的な力は活動し続ける。夜明けに目覚めさせられるのは、意志がそろそろ世界に戻れと信号を送るからだ。それは欲望ではなく、もっと根源的な何か?? 世界が先に動く。身体がそれを感知する。意識がやっと追いつく。名前のない時間は、そうやって終わる。 鳳条 暦

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  • 06/03 17:00

    日曜日は休みの日です

    文体は書き手の顔だ。精神の相貌が刻まれている。 他人の文体をまねるとは、仮面をつけることだ。仮面はどんなに美しくても、生気がないためにまもなく悪趣味で耐えがたいものになる。醜くても生きた顔の方がいい 生きた顔としての自分の文体。 ----- 今日も目が入ってしまった。 誰かが言葉を選ぶ一瞬の間、視線が少しだけ逸れる方向、笑いながら手を動かすときの微妙なリズム。意味を読もうとしているわけじゃない。ただ、入ってくる。 ヴェーバーは言う。人間の行為には主観的意味がある と。外から見える動きだけでは行為は理解できない。その人が何を意図し、誰を意識し、何に向かっているのかを見なければならない と。 わかってる。だからこそ疲れる。 ミードの言葉を借りれば、私たちは他者の役割を内面化することで自己を形成する。他者の視点を自分のなかで再演する。でも私の場合、その再演が止まらない。相手が舞台を降りても、私のなかでまだ上演が続いている。 ゴフマンは人間関係を演劇に喩えた。誰もが何かを演じていて、舞台裏と表舞台がある。私はたぶん、舞台裏が気になりすぎる。演じていない瞬間を探してしまう。でもそんな瞬間は、どこにもないのかもしれない。 ガーフィンケルが言うように、人は無数の「見えないルール」の上で動いている。私がその仕草に目を入れるのは、そのルールの形を感知しようとしているのかもしれない。理解したいからじゃなく、ただ感知してしまう、という意味で。 合理的選択理論は、人は効用を最大化するように行動すると言う。でも私が見てしまうのは、合理では説明できない余白の部分だ。計算の外側にある、その人の体温みたいなもの。 疲れるとわかっていても、目が入る。それは他者の存在をそのまま流せないということだ。意味があると思ってしまう。全部に。 鳳条 暦

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  • 06/03 09:30

    珊瑚

    『珊瑚』 人間がなぜ危険を承知で美しいものに惹かれるのか。 ? 新田次郎といえば、まず山岳小説の作家という印象が強い。 人間が山に挑み、自然の厳しさの前で試され、時に敗れ、それでもなお何かに引き寄せられていく??そのような物語を描く作家のイメージでした。 珊瑚の舞台は山ではなく海。 山ではなく海であっても、新田次郎が描こうとしているものは変わらないのだと思う。 それは人間が自然の中でどこまで生きられるのかという問いであり、同時に人間はなぜ危険な場所へ向かってしまうのかという問いである。 この物語の核心は金になるから珊瑚を採るという単純なものではなく、 登場人物たちは珊瑚そのものの美しさ、海の底に眠る未知の輝き、そしてそれを自分の手で引き上げることにどこか抗えない魅力を感じている。 そこには山に登る人間がなぜ山に登るのか と問われる感覚に近いものがある。 合理的に考えれば危険で割に合わない。命を落とす可能性すらあるけれど、それでも向かってしまう。 珊瑚は彼らにとって単なる商品ではなく、人生を賭けるに値する美の象徴だったのではないか。 珊瑚を読んで感じるのは、珊瑚という存在の皮肉である。 珊瑚は美しい。装飾品となり、芸術品となり、人を魅了する。けれどその美しさの裏には危険な海に出た人間たちの命がある。 私たちは美しいものを見るとき、その裏側にある労苦や犠牲を忘れてしまうことがある。 しかし珊瑚はその美の裏側にある人間の生と死を見せてくる。 美しいものはただ美しいだけではない。 そこには時に人間の執着や犠牲が沈んでいる。 だからこの作品の珊瑚は単なる宝石ではなく、人間の欲望と自然の残酷さが結晶したもののように感じられる。 山岳小説の新田次郎が海を書いた、という点もとても面白い。 山と海はまったく違うように見えるけれど、どちらも人間を試す場所である。 山では天候、雪、岩壁、寒さが人間を追い詰める。海では波、風、潮、嵐が人間を飲み込む。 どちらにも共通しているのは人間が自分の力を過信した瞬間に、自然がその小ささを思い知らせるということだ。 それでも人間は向かっていく。 山へ。海へ。 危険の向こう側にしか見えないものがあると信じて。 この物語の魅力は難解な心理描写ではなく、まっすぐな人間の行動によって感情が伝わってくるところにもある。 現代小説のように内面を細かく分析するのではなく、男たちは海へ出る。惚れる。争う。夢を見る。死に近づく。 だから読みやすいのに軽くはない。 余計な説明が少ないからこそ読後にずしりと残る。 珊瑚は海洋ロマンであり、青春小説であり、歴史小説であり、災害文学でもある。 そして人間が何かに魅入られて生きることの物語。 珊瑚に魅入られる。海に魅入られる。 愛に魅入られる。自然に敗れると知っていても、人間は何かに魅入られずには生きられない。 しかし人間そのものが1番切なく、1番美しいと そう思わされる時もある。 素敵な本を教えてくださりありがとうございます??? 鳳条 暦

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  • 06/02 17:03

    書花創

    こけるまで、止まれない。 もっと早く休めばよかった。 そう思う頃には、たいていもう遅い。 思えば、あの時もそうだった。 虫歯菌が歯の奥深くまで入り込み、神経に届くまで休まなかった。 同じ足を何度も痛めて、それでも走り続けて、疲労骨折になるまで止まらなかった。 微熱だから大丈夫だと動き続けて、血液検査の場で倒れて、ようやく身体に止められた。 私はいつも限界を少し越えてからしか気づけない。 今休んだら、昨日の自分を超えられないかもしれない。 どうせいつか休める。 ここで止まったら、全部が崩れてしまう気がする。 そんな気持ちがずっと身体の内側に残っている。 昔ほどストイックに生きているつもりはない。 でも奥のほうにはまだ、べっとりとした何かがこびりついている。 まだいける、これくらい大丈夫、あと少しだけ そうやって自分を押し出してきた時間が、身体のどこかに積もっていたのかもしれない。 そして今、身体は静かに反乱を起こしている。 言葉にならない疲れが、皮膚の下から浮かび上がるように広がっていく。 見えないところで我慢していたものが、もう隠せないところまで来てしまったみたいに。 これは痛みというより、拒絶に近い。 私の身体が、私自身に向かって言っている。 身体は壊れる前にちゃんと声を出していたのかもしれない。 でも私はその声を努力不足だと思ってしまった 止まることを、負けることみたいに扱ってしまった。 本当は身体はずっと味方だったのに。 限界まで頑張ることが強さだと思っていた。 昨日の自分を超えることが、生きている証明だと思っていた。 でも、昨日の自分を超えるために、今日の自分を壊していたら、私はどこへ向かっているのだろう。 休むことは逃げることではないのかもしれない。これ以上、私を私から奪わせないための、いちばん静かな抵抗なのかもしれない。 今、身体に起きていることを、私はまだうまく説明できない。 怖いし、不安だし、恥ずかしさもある。 でも少なくとも、これはただの不調ではなくて、私の身体が最後に引いた境界線のように感じている。 ずっと私が止まれなかったから、身体が代わりに止まってくれた。 だから今度こそ聞かなきゃいけない。 丸々一週間、本当にご迷惑をおかけしてすいません。 散歩なんかせず、食って寝ろ とナース様にもドクター様にも背中を押されました。 頑張りますと言いたいところですが、頑張りません。 鳳条 暦

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  • 06/02 09:15

    私と海

    明るい瞳の奥に闇を引きずる貴方様。 忘れてはいけないが、自分を見失ってはいけない。 趣味の登山、他の好きなことで空白を全て埋める必要はありません。埋まらないから覚えておけることもあると思います? ----- スタバでチョコテリーヌ食べちゃいました? 時間がないのにケーキを頼んで、最後は口に詰め込みました? 今度はもう少しだけゆっくり食べたい?味の感想より急いだ事実… 人生、山ありチョコあり… -----  海に自己否定は存在しない。 クラゲは脳も心臓もないのに、月の引力で漂い続ける。 ウミガメは30年後も、生まれた浜の磁場を忘れない。 イルカは眠りながら泳ぐ。脳の半分だけ休ませて、また跳ぶ。 マッコウクジラは、深海2,000mで傷つく。 だから水面の光を誰より知っている。 『足りない』という概念は、人間が後から付け加えた。 本当は貴方も生きてるだけで完成してる。 あなたの『足りない』は、あなたの『神秘』だ。 ?  特に美しいのは、生き物たちは自分に欠けているものを嘆いていないこと。 クラゲは脳がないことを恥じていない。 心臓がないことを不完全だと思っていない。 ただ海の流れと月の引力に身を預けている。 ウミガメは誰かに教えられたわけでもないのに、自分の帰る場所を身体の奥で覚えている。 それは知識というより、存在そのものに刻まれた記憶に近い。 ここにあるのは欠けているから劣っているのではなく、欠けているように見える部分にその生命のかたちが宿っているという思想。 人間だけが自分を外側の基準で測ってしまう。 もっと賢くなければ。もっと綺麗でなければ。 もっと強くなければ。もっと成功していなければ。もっと愛される価値のある人間にならなければ。 でも海の生き物たちはそんなふうに生きていない。 誰も別の生き物になろうとしていない。 あなたが欠点だと思っているものは、まだ読み解かれていない才能かもしれないということ。 足りないは入口なのかもしれない。 海に自己否定がないのは海の生き物たちが完璧だからではなく、それぞれが自分の不完全さをそのまま生存の形に変えているから。 だから人間もきっと欠けているところを消すために生きているのではなく、 欠けていると思っていた場所から自分だけの神秘を見つけるために生きている おのれを知らない者のみ、自分を客観的に見ることができる 鳳条 暦

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  • 05/31 09:15

    こども以上おとな未満

    ギフトが紡いだ運命に感謝を。 出会ってみなければわからないことが沢山ありました/// 生ぬるい世界は2人だけのもの。 真昼間の部屋で再会を待ちます? ----- ルマンド大好きです? キャラメルは苦手なのに、フロランタンは好き。 暑いのは苦手なのに、駅のホームの椅子にちょこんと座るのは好き? これを見ると早く貴方と会える気がするのです? ----- ??どんなユートピアも絶えずすべての人間を満足させておくことはできない。物質的な面が改善されるにつれて、人間の視野もまたひろがる。そして彼らは、一昔前なら気ちがいじみた妄想としか考えられなかったろう不思議な力や便利なものにも、いつか満足しなくなってしまう。 (幼年期の終り) 人類にとってユートピアとは終着点ではない。 それはむしろ、次の不満が生まれるための静かな土壌である。 飢えがなくなり、病が遠ざかり、労働の苦しみが軽くなったとしても人間の心はそこで停止しない。 かつては奇跡と呼ばれたものもいずれ日常となる。 文明は人間を満足させるために進歩してきた。だがその進歩は同時に人間の欲望の地平を押し広げてしまう。 昨日までの夢は今日の当然になる。今日の当然は明日の退屈になる。 そして退屈の中から人間はまた新しい不可能を求め始める。 だからどれほど完璧に見える社会であっても、すべての人間を永遠に満足させることはできない。なぜなら人間は満たされたものによってではなく、まだ満たされていないものによって自分を定義する存在だからである。 物質的な欠乏が消えた世界では人間はようやく幸福になるのではない。 むしろそのとき初めて自分自身の精神の空白と向き合わされる。 食べるために生きていた時代には、人生の目的は明白だった。 しかしすべてが与えられた世界ではその単純な目的は失われる。人間は問わざるをえない。 なぜ生きるのか。 ユートピアの恐ろしさはそこに不幸がないことではない。むしろ不幸というわかりやすい敵が消えたあと、人間が自分自身の内側にある飢えを見つけてしまうことにある。 人間は幸福だけでは満足できない。 人間は意味を求める。変化を求める。 そして時には自分を危険にさらすほどの何かを求める。 それは愚かさでもある。しかし人類を星々の方へ押し出してきた力でもある。 人間は満足できないからこそ進歩した。 満足できないからこそ、海を越え、空を飛び、宇宙を見上げた。 神を想像し、科学を築き、芸術を生み、まだ存在しない未来を夢見た。 人類の幼年期とは未熟であることではない。 永遠に何かを欲しがり、手に入れたものの向こう側を見てしまうこと。 その落ち着きのなさこそが、人間を人間にしている。 うまくいくのは、自分が欲しいものがちゃんとわかっている人。 鳳条 暦

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  • 05/30 16:05

    6月1(月).2(火) 13:15-

    空き枠のお知らせです? 台風が近づいているのですか? 実はあまり天気予報を見ていなかったので、ついさっき伺ったところです? 来てくださる方は十分に気をつけて、まだ空いてるので台風にも負けない方、長いものにちゃんと巻かれることができる優秀な方はぜひ?? ちなみに私は長いものに巻かれたくない!みたいな顔をしながら、はいわかりました????と 言えるかな というところ。 昨日と今日は本当に良いお天気で、 ずっとこうであって欲しいと願うばかりです? 今日は本当に会えてよかったと思っているのに、空き枠をお知らせなんてしたくない気持ちですが。 ご縁があれば嬉しいです?? 鳳条 暦

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  • 05/30 09:30

    身体強化魔法

    気だるげな顔や仕草からは想像できないくらい 真っ直ぐな貴方。 何かできないかと考えさせられました。 貴方のゴールや貴方の道標になれるように私も常に前に進もうと思うのです? 丸ごと、よしよしさせていただきます? ----- 非常食にさせてもらっています?? R1のベリーは多分初めて飲みました? 流動食万歳? ----- 第5部-魔法と身体- 魔法は頭脳だけでは使えない 魔法について考えるとどうしても知識や理論や呪文の話になりやすい。 でも、魔法には身体が必要だと思う。 『とんがり帽子のアトリエ』では魔法陣を描く手が必要になる。 『魔法科高校の劣等生』では魔法は演算や技術だけでなく、実戦の中で身体を通して扱われる。 『まどか☆マギカ』では魂と身体の関係そのものが大きな問いになる。 魔法は頭の中だけで完結しない。世界へ触れるには身体がいるのだろう。 人間は身体を通して世界を知る。感覚は言葉になる前に身体に届く。 魔法が世界との深い関わりだとしたら身体感覚を失った人間は魔法から遠ざかる。 現代人は頭で考えることに偏りすぎているのかもしれない。 それは大切なのだけど、身体が置き去りになると世界との接触が薄くなる。 魔法とは、境界を越える力だと言った。 でも境界がなければそもそも越えることもできない。 身体は魔法の器であり、限界であり、入口でもある。 ? 身体を通した魔法は、現実にもある 魔法使いとは頭のいい人ではなく、世界に触れる感覚がより強い人なのかもしれない。 知識を持っているだけでは足りない。 世界の反応を感じ取る力もまた魔法に近い。 ただしここにも危うさがある。 見えるからといって踏み込んでいいわけではない。感じ取れるからといって暴いていいわけではない。 身体を通した魔法は次の問題を呼び込む。 それが倫理だろう。 身体の感覚、読み、身体を動かすことは自由に魂をのばせる作業のひとつではないでしょうか。 鳳条 暦

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  • 05/29 17:15

    しゃーないな〜???

    朝、電車に向かう道の途中で幼稚園児くらいの女の子とお父さんを、ほぼ毎日のように見かけていた。 時間帯が重なるから、自然と目に入る。 女の子はたまにこちらをちらっと見て、目配せのようなものをしてくる。 それがなんだか可愛くて、私はついふたりのことが気になっていた。 お父さんはいつもスーツ姿だった。 仕事用の荷物に加えて、おそらく女の子の荷物も持っている。 むしろ子どもの荷物の方が多そうに見えた。 女の子を抱っこしている日もあれば、手を繋いで歩いている日もある。 身長差のせいだろうか。 お父さんの肩は、いつも少し右に下がっているように見えた。 その姿を見ながら、私は勝手に思っていた。 大変そうだなと。 朝から仕事に向かう前に、子どもを送って、荷物を持って、抱っこして、手を繋いで。  奥さんは何をしているんだ。そもそもいるのかいないのか。 なんだか少し可哀想なお父さんの物語を勝手に作っていた。 女の子の服装が半袖になったことに気づいた頃、ああ。もう暖かくなったんだなと思った。 その朝、初めて奥さんを見かけた。 狭い階段を3人が手を繋いで歩いていた。 お父さんと女の子、お母さん ぎゅっと繋がった小さな家族の形だった。 私は勝手にお父さんを可哀想でひとりで頑張っている人だと思っていた。 でも本当は私が知らないだけだった。 誰かの日常は、見えている一部分だけでは全然わからない。 荷物の重さも、肩の傾きも、抱っこの回数も、 それだけではその人の幸せも寂しさも決められない。 そんなに広がって歩いたら他の人の邪魔になるぞ。 3人で手を繋いで階段を上っていく彼らを避けて、でも胸の奥が少しあたたかくなった。 幸せになってくれよ。 こんちきしょー。 鳳条 暦

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  • 05/29 09:15

    物語を語る脳は冷酷な魔法を存分に発揮する

    夜が好き。私に寄り添ってくれるから。   辺りの静寂はいつも私を励ましてくれる   昼間に輝く太陽は姿を消し、昼間に姿を消していた星たちが姿を現す   それがまるで昼間の喧騒から逃れ、   私の悩み事が私とやっと対峙する準備ができたように思えるんだ ----- 最初、私は昆布が入っているのだと思ったんです? 昆布から出汁をとるほどしっかりとした料理はたまにしかしないから、使い道に迷っていたところ? 美味しい美味しいクッキーとコーヒーでした? これを機にコーヒーデビューしたいと何回挑戦したことか? ----- 第4部-人類が本当に手に入れる魔法とは何か- 技術・言葉・生き方としての魔法 それは三つあると思う。 一つ目は技術としての魔法。 二つ目は言葉としての魔法。 三つ目は生き方としての魔法。 ? 1. 技術としての魔法 技術としての魔法はすでに始まっている。 通信技術。AI。仮想現実。脳科学。 これらはすべて過去の人間から見れば魔法に近い。 外側の世界に向かう魔法。 ただし技術としての魔法は必ず制度と権力に結びつく。 ここで『魔法科高校の劣等生』が重要になる。 ? 『魔法科高校の劣等生』の魔法 魔法が科学化されたときそれは夢ではなく制度になる 『魔法科高校の劣等生』の魔法は神秘というより技術として扱われる。 魔法は体系化され、測定され、訓練され、評価され社会の中に組み込まれている。 これはとても現実的な魔法観。 もし現実に魔法が存在したら、きっと人間はそれをすごいね で終わらせない。 必ず管理する。 分類する。軍事利用する。商品化する。格差を作る。 魔法がある世界は必ずしも美しい世界ではないであろう。 むしろ能力が可視化されるほど人間は残酷になる。 現実でもそうであって、人間能力を測る指標を手に入れるたびに人を並べてきた。 もし魔法が測定可能な能力になったら同じことが起こる。 魔法が制度化されると、魔法は夢ではなくなり、競争になり、管理される。 ここに技術としての魔法の怖さがある。 本当に問うべきなのは魔法を社会に実装したとき人間はそれを誰のために使うのか ? 2. 言葉としての魔法 人類がすでに持っている最も古い魔法は言葉だと思う。人を動かす力を持つ。 たった一言で人は救われる。たった一言で人は壊れる。 言葉は祝福にも呪いにもなる。 名前とは存在に輪郭を与えること。 人は言葉によって自分自身を作る。 だから、言葉を扱う人間はすでに小さな魔法使いなのだと思う。 ? 3. 生き方としての魔法 失敗を終わりと見る人もいる。学びと見る人もいる。 孤独を欠落と見る人もいる。静けさと見る人もいる。 現実そのものは変わっていなくても、意味の与え方によってその人が生きている世界は変わる。 人間は出来事そのものではなく、出来事に与えた意味の中を生きている。 だから意味を編み直す力は現実を編み直す力に近い。 魔法とは世界そのものを変えることだけではない。世界の受け取り方を変えることでもある。 失ったものは戻らない。でも失ったことで見えるようになったものを受け取ることはできる。 これもまた魔法だ。 鳳条 暦 ?

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  • 05/28 09:15

    わからないものにぶつかる意味

    金利が上がっているのに円は買われない。 この現象は、日本に対する市場の見方が変わり始めていることを示しているのかもしれない。 通常、日本国債の利回りが上がり他の先進国との金利差が縮まれば、円には上昇圧力がかかりやすい。 しかし今その単純な関係は崩れている。 問題は目の前の財政赤字だけではない。 市場が見ているのは日本という国が将来にわたって財政規律を維持できるのかという一点である。 より正確に言えば政治家がどこまで財政拡大を選び続けるのか。 そして有権者がどこまでその選択を許容するのか。 インフレに対して本来なら需要を抑える方向に動くべき局面で政府が財政拡大によって痛みを和らげようとする。 その姿勢は市場にとってひとつのメッセージになる。 「この国は将来の規律よりも現在の負担軽減を選ぶのではないか」 そう見られ始めたとき通貨にはリスクプレミアムが乗る。 今の円安は単なる金利差の問題ではない。 日本の将来の政治行動に対する不信が為替に織り込まれ始めている。 そう考えると金利上昇と円安の共存はむしろ自然な現象にも見えてくる。 円安とは日本の財政そのものへの評価ではなく、日本社会が将来どれだけ規律を守れるかへの評価である 将来政治がインフレや生活苦に対して常に財政出動で応じる国になっていくのではないか 政治家の選好、有権者の許容度 投資もまた心理戦。 鳳条 暦 ?

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  • 05/26 09:15

    学校では生き方は教えてくれない

    映画を見てから貴方の顔が浮かびました。 この文章も貴方に真っ直ぐ届いてはいけないと思いながら書き綴るのです。 普段の貴方を想うと、強く抱きしめずにはいられません。 どうかこれからも、貴方とともに。時の流れさえ忘れてしまうようなひとときを重ねていけますように。 ----- 友達からもらいました? 学校で友達作るつもりはなかったのですが、話しかけてもらえたのはどこか嬉しい?? 他者に関心がありすぎるのも無駄が多いし、無関心すぎるのも問題がある。最適解はわからない。 ----- 第2部-魔法は科学の未来なのか、人間の原始なのか- 人類は進歩によって魔法へ向かうのか、感覚を取り戻すことで魔法へ戻るのか 魔法を考えるとき、私たちはつい未来を想像する。 科学が進めばいつか魔法のようなことができるのではないか。 遺伝子工学が進めば病気や老化を制御できるのではないか。 AIが進めば人間の知能を超えた存在と共に世界を作れるのではないか。 仮想現実が進めば、もう一つの世界を生きられるのではないか。 この意味で魔法は科学の未来にあるが、魔法は未来だけのものではない。 むしろ魔法は人間の原始にもある。 昔の人間は世界をもっと濃く感じていたはずだ。森の気配。雨の匂い。動物の足音。月の満ち欠け。夢の不穏さ。死者の気配。 現代人は世界を説明する能力を得た。 説明できるようになったことで安心した。 名前をつけたことで扱えるようになった。 分類したことで支配できるようになった。 魔法とは名付けたことによりこぼれ落ちたものに触れる力ではないのだろうか。 科学は世界を切り分ける。魔法は世界をつなぎ直す。 科学はなぜそうなるのか を問う。 魔法はそれとどう関わるのか を問う。 科学は魔法を否定するものではない。 むしろ科学は、魔法の一部を引き受けてきた。 しかし科学が発展しても、人間のすべての不安が消えるわけではない。 なぜ私は生きているのか。 なぜ愛する人を失うのか。 なぜ人はわかり合えないのか。 なぜ同じ世界を見ているのに、こんなにも感じ方が違うのか。 なぜ言葉は届かないのか。 なぜ人は願ってしまうのか。 この問いは科学だけでは完全には閉じない。 だから魔法は科学の反対側にあるのではない。 科学が世界を解明した後にも残る、人間の感覚と意味の問題として存在する。 ? 魔法使いは未来人であり原始人でもある なぜなら魔法使いは世界を対象として見るだけではなく世界と関係するから。 風を読む。水の流れを見る。 人の沈黙の奥にあるものを感じる。 これは単なる知識ではない。 身体を通した知性で感覚だ。 『とんがり帽子のアトリエ』の魔法が美しいのは、魔法が手仕事に近いところだと思う。 魔法陣を描く。線を引く。世界の規則を自分の手でなぞる。 人類が魔法へ近づくとしたら科学を進めるだけでは足りない。同時に世界を感じ取る感覚を取り戻さなければならない。 知識と感覚。未来と原始。 その交差点に魔法はある。 鳳条 暦

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  • 05/25 10:01

    27(水).28(木).29(金) 11:00-

    空き枠のお知らせです? どの日時も11:00-枠のみが案内可能です? 5月はGWがあったので後半が少し寂しい? 他の枠は満たしていただけているので、 少々わがままかもしれないのですが お時間があれば一緒に遊んで欲しい/// 最近はスマホで勉強できるように環境を整えたおかげでちょっとだけ効率よく時間を使えています?? 6月はあまり変わらず、お店に出つつ、 7月くらいから私情で毎日は来れなくなるのかな… 時の流れ感じます? 旅行に行くと価値観が変わると言いますが、本来の価値観を変える必要はあるのか。 短い期間でそんなに価値観は変化するのでしょうか? 結局色々考えちゃうので、貴方様とはふわふわした時間を過ごしたいです?? 鳳条 暦

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  • 05/25 09:15

    幸福世界

    早起きは苦手だけど、その分いいことが多い。 この間は乗る電車を待っている時、前の電車に乗っていた子が中からこちらに手を振ってくれた? 駅のホームの椅子に座って、風を感じながらのんびりできる季節になった。 早起きに慣れたら朝ごはん作りたいな? ----- ねこー!だけど中身はチョコです? もうチョコがじんわり溶けちゃう季節になりましたね。 ----- 第3部-魔法を使える人間は幸せになれるのか- 可能性が増えるほど人間は自由になり、同時に苦しくなる 魔法が使えるようになったら、人間は幸せになれるのだろうか。 一見幸せになれそうに思える。できることが増えて願いが叶うから。 でも本当にそうだろうか。できることが増えるということは、責任が増えるということでもある。 何もできなければ諦めることができる。 これは運命だったと言える。 けれど魔法があるなら話は変わってしまう。 変えられたかもしれない。もっと早く気づけたかもしれない。あのとき別の魔法を使っていれば、結果は違ったかもしれない。 可能性は人間を自由にすると同時に、人間を苦しめる。 なぜなら可能性が増えるほど後悔も増えるから。 ? 『まどか☆マギカ』の魔法 願いは、叶った瞬間に呪いへ近づくことがある 『魔法少女まどか☆マギカ』の魔法は、非常に残酷で非常に哲学的だと思う。 この作品の魔法は願いと結びついている。 強い願いがありその願いが叶えられる、代わりに少女たちは過酷な運命を背負う。 ここで描かれる魔法は単なる力ではなく、願いの物質化だ。 人間が心の奥底から望んだものが現実を変えるが、願いが現実になった瞬間その願いは別の重さを持つ。 これは現実の人生にも似ている。 何かを強く願うことは美しいけど、同時に危うい。 愛されたい。やり直したい。強くなりたい。 願いは人を生かすが、願いは人を縛ることもある。 願いは光であると同時に影を生む。 『まどか☆マギカ』が恐ろしいのは願いそのものが悪いからではない。願いが純粋だから恐ろしい。 純粋な願いほど呪いに近づくことがある。 誰かのために。愛のために。 そういう美しい言葉の裏で人は自分を燃やしてしまう。 魔法を使える人間は自分の欲望と向き合わなければならない。 ? 魔法が人間に与えるものは単純な幸福ではなく、魔法は人生の深度を増す。 できることが増える。見えるものが増える。 変えられるものが増える。 その分苦しみも増える。後悔も増える。 自分の弱さも見える。 だから魔法は幸せになるための道具ではない。 人生をより深く生きるための力だと思う。 魔法を使える者は無邪気ではいられない。 願いを叶えられるということは、自分が本当は何を望んでいるのかを突きつけられるということでもある。 魔法を手にした人間が幸福になるには力よりも成熟が必要になる。 力があることより力に飲まれないこと。 願いがあることより願いに支配されないこと。 鳳条 暦

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  • 05/24 17:30

    純情まっさかり

    いっぱい迷惑かけました? でも貴方の行動力と決断力。男らしさに助けられました。 貴方はとてもかっこいいと何度か出会う中で私は初めてそう思わされました。 私は少しだけ貴方にリードしてほしいと思ったのです? 変わりゆく私を許容してほしい。 どうかこれからも楽しい時間が過ごせますように ----- 豆大福食べました? 甘いあんことちょっと塩っけがあるのがいい/// この夏は元気に過ごせますように ----- エアコンの冷気に私の鼻の繊毛は刺激を受けて、くしゃみが止まりません? 外を吹く風は色々なものを孕んでいる気がするのですが、何故か心地よい。 ほんのりリラックスさせられたりもします/// ??外を吹く風に心地よさを感じるのはなぜ? 普段、世界を主体として扱おうとしている。 計画して、選んで、コントロールして。その姿勢が基本モードになっている。 でも風はそのモードを一瞬無効にする。 頼んでいないのに来て、止めようとしても止められない。それなのに傷つかない。むしろ気持ちいい。 これは小さな降伏の体験とも言える。 降伏が怖くない、という希少な瞬間。 人は普通コントロールを手放すことを恐れる。予測できないものは脅威だから。 でも風だけは??少なくとも穏やかな風は??脅威でない不確かさとして存在する。 コントロールしなくていい、抵抗しなくていいという体験がこんなにも安らかなんだと気づかせてくれる。 それは逆説的に、普段いかに何かに抵抗し続けているかを映し出す鏡でもある。 老子の 谷の精神 老子は谷を好んだ。谷は低く、空で、何でも受け入れる。風も水も、来るものを拒まない。 そして谷は、受け入れるからこそ満たされる。 風に心地よさを感じる瞬間私たちは少しだけ谷になっている。 意志を持ちながら手放す。 ----- 皮膚は自分と世界を分ける線として機能している。この内側が私、外側が世界。その区別が 私たちの存在感の土台になっている。 でも風が吹くとき、その線が一瞬あいまいになる。風は外にあるのに私の内側の感覚として現れる。どこまでが私で、どこからが風なのか、厳密には言えない。 西田幾多郎 純粋経験 日本の哲学者・西田幾多郎は、主語と述語が分かれる前の経験そのものの状態を純粋経験と呼んだ。 私が風を感じているではなく感じているという出来事だけがある。 主体と客体に分かれる前の一瞬。風の心地よさの中には、その純粋な状態が宿っている。 受け取ることと諦めることは、どう違うのか。 風に身を任せるのは、受動的な敗北ではない。でもどこが違うのか。 「私」はどこで終わり、世界はどこから始まるのか。 風はその問いに言葉ではなく身体で答えてくれる。境界は思ったよりずっと曖昧だと。 鳳条 暦

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  • 05/24 09:30

    空に抱かれる月になりたい

    1人社長の貴方様。まだどこか硬い印象を持ちました? 足を組み、椅子に腰掛けて時計を気にする姿は普段からの習慣を思い立たせます。 貴方といつか時間も忘れるくらい甘美なひとときを過ごしたいと思うのです。 ブランディングが素晴らしい?黒く、細身のシルエットが媚びない色気を醸し出す。 どこか上品で美しいのに、従順なだけではない荒々しさ。 影まで魅力的に魅せる ----- 悩んだとき、考え事をしているとき。 空や海をぼーっと眺めた経験はありますでしょうか? 私は結構良くあります? 何故と聞かれると難しいのですが…空や海が好きだからかな? でも海はサメに食べられそうでちょっと怖い? ??空や海に引き込まれそうになるのはなぜ? 空や海に引き込まれそうになるのはそれが広すぎる他者だからだと考えます。 人間の目は普段はある程度外側の輪郭のあるものを見ている。 人の顔、建物、文字、スマホの画面、予定、名前のあるもの。 それらは全部こちらが理解できる大きさに切り取られている。 でも空や海は見えているのに終わりがない。 そこにあるのにこちらの理解の枠に収まらないから、人は空や海を見ると少しだけ自分との境目を失う。 私という小さな境界が青の広がりの中でほどけていく。考えていたこと、悩んでいたことが一瞬遠くあたかも物凄く小さく感じる。 引き込まれそうになる感覚は危険を少し感じつつ、自分が自分だけではなくなる予感なのかもしれない。 海を見ていると波はずっと動いていて、同じ形をしているようで一度も同じではない。 感情に似ている。悲しみも、愛しさも、不安も、執着も。止まっているようで本当はずっと揺れている。 だから海を見ると自分の中の言葉になる前の感情が反応する。 ああ。私の内側にもこれがある と思う。 理由は説明できないけれど自分の奥にあるものと海の動きは似ている。 空はもっと静かで海のように音を立てない。 ただどこまでもある。雲が流れ光が変わり、夕方には色を変える。 空は何も教えてくれないのに、時間の流れそのものを見せてくる。 夜の空には人間がいなくても続いていく世界がある。 だから空を見ると、自分の人生自体が少しだけ遠くの景色になる。 今日うまくできなかったことも言えなかった言葉も、空の下では全部小さくなる。 それは救いだ。 私の痛みは私にとっては世界の全部みたいに大きい。けれど空や海の前に立つと世界は私の痛みよりずっと大きいのだと知らされる。 少し安心する。 私が抱えきれないものを世界のほうは抱えられるのかもしれない と思えるから。 空や海に引き込まれるのは、溶けて、ほどけてしまいたい からかもしれない。 名前や役割や考えすぎる頭から一度離れて、ただ大きなものの一部になりたい。 広く生ぬるい世界に抱きしめられたい。 人は時々自分でいることに疲れる。でも誰かに預けるには重すぎる感情がある。言葉にすると壊れてしまう感覚がある。 そのとき空や海は何も聞いてこない。答えも求めない。正しさも押しつけない。 ただ大きく存在している。 その前でなら何者でもなくてもいい気がする。 だから時々空や海のようなものに触れて、自分より大きなものの中に戻りたくなる。 ただ何も求めず奪わず、そっと抱きしめて欲しい。 きっと帰巣本能に近い。 鳳条 暦 ?

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  • 05/23 09:17

    燃えるような恋がしたい

    やっと会えた!の気持ちが大爆発? おそらく爆発に貴方も巻き込んでしまいました? 実はつい数日前にも会っていたのに、 早く早く貴方と会いたかったのです? 本当は貴方の話を聞くつもりが、貴方に会えば溢れる感情を抑えられない。 あぁもっともっと貴方のことが知りたい あら、こちらにも鳥さん? GODIVAにも春がやってきたのですね/// チョコレートには旬などありませんから、いつでも美味しくいただいております? ----- 1.5部-『とんがり帽子のアトリエ』の魔法- 魔法は選ばれた者の奇跡ではなく世界を学ぶ者の技術である。 『とんがり帽子のアトリエ』の魔法はとても象徴的だ。 この作品における魔法は、生まれつきの超能力というより描くことで発動する技術として描かれる。 魔法陣を描き線や記号の意味を理解し、それを組み合わせることで世界に作用する。 ここで大事なのは、魔法が知ることと結びついていること。 魔法はただ願えば起こるものではない。 正しい構造を知らなければならない。正しい線を引かなければならない。順序を間違えれば望んだ結果にはならない。 これはかなり現実の学問や技術に近い。 建築家が図面を描く。その線に従って何もなかった場所に家が建つ。 プログラマーがコードを書く。 その文字列に従って画面の中で世界が動く。 人間はすでに線と記号によって現実を変えている。 だから『とんがり帽子のアトリエ』の魔法は、単なる空想ではなくかなり人間的な魔法観だと思う。 魔法とは特別な血筋に宿るものではない。 世界をよく見て、学び、手を動かし記号を扱えるようになることで開かれるもの。 魔法は才能よりも学びに近い。 神に選ばれることよりも世界を理解することに近い。 この魔法観はとても優しい。とても厳しい。 優しいのは誰にでも扉があるから。 厳しいのは知ろうとしない者には開かれないから。 自分は特別ではないから魔法が使えないではなく、「自分はまだ知らないから魔法が使えない」になる。 この違いは大きく、才能で閉じられた世界では人は諦めるしかない。でも学びで開かれる世界なら人は変わることができる。 ここに人類が魔法へ近づくための一つ目の道がある。 魔法とは世界を学び続けた者にだけ開かれる現実への干渉技術である。 鳳条 暦

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  • 05/22 17:00

    つらつらつら

    人の少ない電車でガッツリ寝ました? 自分が降りる駅の名前が聞こえたので、荷物を持って勢いよく立ち上がり。 出口に向かったら、まだついていなくて。恥ずかしくなったので電車の隅にこそっと隠れました。 人の少ない電車大好物です?? 大好きなパフェが全部食べれなくて悲しい気持ちに? 何でもない日に早起きして、朝からフレンチトーストを作ったら。バターで胸焼け? 二度寝をすると大抵次に起きた時間は遅刻します? 男子高校生はテスト勉強でAIを使う。 ----- 第1部-魔法とは何か- 世界を読み現実に干渉する力 魔法とは何か。最初に魔法を不思議な力とだけ定義してしまうとそこで考察は止まってしまう。なぜなら現実には存在しないで終わってしまうから。 でも魔法をもっと広く捉えるならこう言えると思う。 魔法とは世界の仕組みを読み取り、その仕組みに働きかけることで現実を変える力である。 この定義にすると魔法は一気に現実へ近づく。 人間は世界そのものを直接動かすことはできない。念じただけで火は出ないし、祈っただけで雨は降らない。愛しただけで病は消えない。 けれど人間は世界の法則を観察し、それを記号化し、技術に変えることで現実に干渉してきた。 火の性質を知ったから火を扱えるようになった。星の動きを読んだから季節を予測できるようになった。身体の構造を理解したから、 治療ができるようになった。数式を作ったから、橋を架け飛行機を飛ばし宇宙へ向かえるようになった。 これはかなり魔法に近いのではないか? 昔の人間が現代を見たら現代人は間違いなく魔法使いに見えると思う。 小さな板に触れるだけで遠くの人の声が聞こえる。空を飛ぶ鉄の塊に人間が乗る。身体の中を切らずに見ることができる。死にかけた命を機械と薬で繋ぎ止める。存在しない映像を作り、声を再現し文章を生み出す。見えない電波で世界中の情報が届く。 現代人はそれを魔法とは呼ばない。なぜなら仕組みをある程度知っているから。 でもそれは裏を返せば魔法とはまだ説明されていない技術の名前でもあるということになる。 魔法は説明される前は神秘であり、説明された後は科学になる。けれど人間がそこに感じる驚きは実はあまり変わらない。 一体何部でまとまるかな? to be continue 鳳条 暦

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  • 05/22 09:15

    なーにやってもなー

    貴方に会いたかった。 理不尽な出来事に悩む貴方が1番に自分を思い出して会いにきてくれたのがこの上なく嬉しかったんです? 寝坊で始まった1日が貴方のおかげで良い日に変わりました?? 私との出会いが貴方にとってプラスになりますように。 モナカ美味しかったです? ほぼあんこの贅沢モナカ? 中身の詰まった人間に私もなりたいな ----- ??人生とは長い時間をかけて自分を愛する旅である。今、愛なら何をするだろうか。 自分を愛する旅=人生の大きなテーマ  今、愛なら何をするだろうか =その旅の途中で迷った時の問い こころの資本 =その問いを重ねて得ていく内側の財産 ? 人生とは、長い時間をかけて自分を愛する旅である。 それは自分を好きになることだけではない。 自分を甘やかすことでも傷つかない人間になることでもなく、 自分の中にある弱さ、醜さ、未熟さ、矛盾、情けなさを見つめてもなお、それでも自分を見捨てずに生きていくことなのだと思う。 私たちは簡単に自分を責める。あの時もっと上手くできたはずだと。あんな言い方をしなければよかったと。もっと強く、もっと優しく、もっと美しく、もっと賢くあれたはずだと。 けれど自分を責め続けることは反省に似ているようでいて、実は自分を愛することから遠ざかっている時もある。 本当に必要なのは完璧な自分になることではなく、不完全な自分を連れてそれでも歩き続けることなのかもしれない。 そのために、私はときどき自分に問いかけたい。 今、愛なら何をするだろうか。 不安ならしがみつくかもしれない。 寂しさなら相手を試すかもしれない。 プライドなら何も言わずに背を向けるかもしれない。 でも愛なら何をするだろう。 愛なら少し待つかもしれない。静かに言葉を選ぶかもしれない。自分の本音をごまかさないかもしれない。自分を粗末に扱う場所から離れるかもしれない。 愛はただ優しいだけのものではないから 今、愛なら何をするだろうかという問いは綺麗事ではない。 それは、感情に飲まれた私をもう一度深い場所へ戻してくれる問いだ。 傷ついた反射で動こうとする私ではなく、 もっと奥にいる、静かで、あたたかい私に戻るための問い。 そうやってひとつひとつ選び直していく。 言葉を選び直す。自分への扱い方を選び直す。 その積み重ねがやがてこころの資本になる。 こころの資本とは目に見える財産ではない。 お金でも、肩書きでも、才能でも、誰かからの評価でもない。 それは、人生の途中で自分を支えてくれる内側の蓄えだ。 傷ついてももう一度立ち上がれた記憶。 自分を嫌いになりそうな夜をどうにか越えた経験。誰かに大切にされた温度。 泣きながらでも明日を迎えた時間。 そういうものが少しずつ積み重なって、私は何度もここまで来た という静かな力になる。 人生はいつもわかりやすい幸せだけをくれるわけではなく、迷い、喪失、後悔、期待外れの中で私たちは何度も自分との関係を試される。 そのたびに自分を傷つける方へ行くのか。 それとも自分を愛する方へ少しだけ戻るのか。 その小さな選択の連続が人生なのだと思う。 人生とは長い時間をかけて自分を愛する旅である。そしてその旅の途中で何度も立ち止まり問いかける。 帰る場所を自分の内側に少しずつ育てていくこと。それこそがこころの資本なのだと思う。 映画 廃用身を見てから本当に人生って何なんだろうと考えるようになりました? 鳳条 暦

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  • 05/21 09:15

    完璧を目指さない

    貴重な時間をありがとう? 貴方の顔を見るとついつい不安を吐露する私を優しく包み込んでほしい。 これからも会いに来てもらえるように私はどうすれば良いのかしら。 美味しかった桃のケーキ? 自分でもやっと買うことができて、家でも食べました? また美味しいケーキ一緒に食べましょうね/// ----- 余裕のある人はとても魅力的に感じますね。 その余裕はどこから醸し出されてくるのでしょうか。 本人に聞くのが良いのかしら?と思いつつ、こちらでまずは考えてみました? ??余裕の作り方 心の余裕?身体の余裕? 余裕とは得るものではない。 仏教はそう言う。執着を手放したときはじめて手に入るものだと。皮肉なことに余裕を持とうと力む人ほど余裕から遠ざかる。 感情が薄いことではなく感情に自分を明け渡さない品性のことだ。 怒りが湧く瞬間??私たちは怒りを観ているのか、怒りになっているのか。 仏教はこの区別を悟りと迷いの境界線と呼ぶ。 大げさに聞こえるかもしれないが日常の小さな怒りも、小さな迷いであることに変わりない。 怒りを怒りのまま投げない。寂しさを相手への要求に変えない。不安を支配に変えない。 それは感情を消すことではなく感情を川として、自分を岸として流れを眺めていられること。 ? 曖昧さに耐えられない人は答えを求めて走り回る。 好かれているのか嫌われているのか。勝っているのか負けているのか。 禅はそういう人にこう問い返す。勝った自分とはいったい何者かと。白黒をつけたがるのは自分という輪郭を確認し続けないと不安だからだ。 けれど仏教は言う??そもそも固定した自分などはじめから存在しないと。 これは絶望ではなく逆説的な解放だ。守るべき自己がなければ傷つく自己もない。 揺らいでいいのだはじめから。余裕のある人は、世界を毎回自分への評価として受け取らない。 それは強いからではなく、評価される固定した自分という幻想を少し手放しているからかもしれない。 ? 身体は正直だ。どれだけ悟ったふりをしても呼吸は浅くなり、肩は上がり、視線は泳ぐ。 禅僧が坐禅で最初に教わるのは思想ではなく呼吸だ。 心を整えようとする前に身体を整える。 順序が逆なのではない??身体と心はもともと一つなのだ。余裕のある身体には間がある。 沈黙を怖がらない。急いで返事をしない。場に媚びない。けれど冷たくもない。 これを禅は不即不離と呼ぶ。くっつかず離れず。自分を保ったまま必要な分だけ世界と関わる。 ? 余裕のない人は他人を空白の埋め合わせに使う。認めてほしい。わかってほしい。選んでほしい。 その渇望を仏教は渇愛と呼ぶ。乾いているから飲んでも飲んでも満たされない。 他人で埋めた空白はまた空白になる。 皮肉なのはその空白を埋めようとする行為そのものが空白を深くするということだ。 大人の余裕は、欲しいと思いながら、奪わないと決めるところにある。 愛されたい。でも試さない。近づきたい。でも境界を越えない。不安になる。でも相手を縛らない。この自制を仏教は戒と呼ぶ。 禁欲ではなく欲望と自分の間に一呼吸置くこと。 その一呼吸が、人の品をつくる。 ? 余裕とは足し算ではなく引き算でできている。 老子は言った??為学日益、為道日損。 学問は日々加えるもの道は日々減らすものと。 過剰に説明しない。期待しない。尽くさない。 自分を責めない。 減らすたびに何かが現れる。空白があるから物が置ける。静けさがあるから声が届く。手放すから残るものがわかる。余裕とは満ちることではなく余白を守ることだ。 ? 仏教は無常を説く。 すべては変わる。感情も関係も自分自身も。 これは喪失の思想ではなく、逆説的には最大の余裕の根拠だ。 どうせ変わるなら、今この怒りに全部を賭けなくていい。今この不安を永遠のものとして扱わなくていい。 今この評価を自分の本質と混同しなくていい。 余裕とは静かな支配権だ。 他人を支配するのではなく、自分の反応を自分の手元に置いておく力。傷ついてもすぐに刃にしない。愛していても自分を失わない。 それは優しさであり知性であり色気であり?? そして仏教が二千五百年かけて言い続けてきた、ただ一つのことでもある。  手放すほど残る。 鳳条 暦 ?

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  • 05/20 15:52

    21(木) 22(金) 11:00-

    空き枠があるのでお知らせです? 明日と明後日は まだ11:00-の枠がご案内可能です? 目には目を、歯には歯を。 暑さには、温もりで対抗しましょう。 ? 2人で心温まる時間を過ごせたら嬉しいです? 今日これから雨予想って本当ですか?笑 帰りのことを考えると想像したくないなー? 明日の朝降るのも憂鬱ですが、帰りはもうひどいなって思います? 変えられないものではあるのですが、気になるのってなんでなんでしょうね? それでは、いってきます♪ 鳳条 暦

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  • 05/19 09:30

    ひとりぼっちの最果て

    窓辺で琵琶湖を眺める。 空を見て湖を見て、風を喰む。 何をしてるんだと思うのにおそらく110分かかったのではないだろうか。 貴方といると、時間はもうないも同然。 多くの疑問が駆け巡り、会話は熱をもつ。言葉は温められたポップコーンのように器から弾ける。 部屋は広くてなかなか涼しくならなかった。わたしの心もまだ熱を持つ。 ----- ??人生の交差点 知らない人との一瞬の交差なのにちゃんと人生の温度がある。 電車で隣に座っていたおばさまが、ふいに目を覚ました。 「ここ、○○駅か!」 目を覚ますと同時に、勢いそのまま隣にいた私に聞いてきた。もちろん見ず知らずのおばさまだ。 「ここは△△駅です。○○駅は次ですよ」 そう伝えると、おばさまはほっとしたような顔をした。 「ありがとう。寝過ごしたことがあるから、一瞬びっくりしたわ」 △△駅から○○駅まではほんの数分。そのわずかな時間の中でおばさまは自然に話しかけてきた。 「もうこれから帰りか?」 「いえ、この後学校です。仕事に行くときもあります」 「なんや、忙しいな!仕事何してるん?」 「トレーナーです。ずっとアスリートだったんです」 「へぇー、スポーツは何してたん?」 まあまあ、行きずりの関係にしてはよく話したと思う。不思議と嫌ではなかった。 むしろ数分後にはもう二度と会わないかもしれない人だからこそ、言葉が軽やかだったのかもしれない。 おばさまはふと私に言った。 「あんたみたいな若い子がいると、去り行く私らみたいなんも安心やわ」 去り行く、という言葉が少し寂しかった。 さっきまでただ隣に座っていただけの人なのにその頃にはもう、おばさまがどこかへ行ってしまうことを少し寂しいと思っていた。 「ほな、またね!あ、でもどこで会うかわからんのか」 そう言って笑うおばさまを見て、私も笑った。 そういえば私はこの人の名前も知らない。 どこの誰なのかも知らない。さっきたまたま話しかけられただけの人だ。 それなのにたしかにそこには何かがあった。 私はおばさまに、 「自分の努力が、自分のためだけじゃなくて、誰かの役に立っていると思えることが嬉しい」 というようなことを話した。 その時の空気は少しだけぽわぽわしていた。 電車の中はすでに眠気を誘うような温かさだった。けれど、おばさまとの会話は私の心まで温かくした。 私は人のことがあまり好きではない。 人間観察が癖のようになっていると、どうしても人の汚れた部分まで見えてしまう。少しずつその人の行動や心境が予測できてしまう。 何を隠していて、何を誤魔化していて、どこに弱さがあってどこにずるさがあるのか。 知りたくない面まで見えてしまうことがある。 そのたびに私は、がっかりしたり、怖くなったりする。 人間って面倒だなと思う。 もう私のことなんてほっといてくれと思う。 誰にも近づかれたくないし、誰のこともこれ以上知りたくないと思う。 それなのにこういう出来事は決まって私が人間に疲れている時ほど起こる。 人ってやつはなー… そうやけになっている時ほど、誰かがふっと現れる。隣の席で目を覚ましたおばさまのように。 名前も知らず、人生も知らず、もう二度と会わないかもしれない人が何気ない言葉で私の心に小さな灯りを置いていく。 たぶん私は人間を嫌いになりきれないのだと思う。 汚さも、弱さも、ずるさも、怖さも知っている。それでもたった数分の会話で人を少し好きになってしまう。知らない誰かの安堵した顔にこちらまで安心してしまう。 「またね」と言われた瞬間にもう会えないことを少し寂しいと思ってしまう。 人間が嫌いだと言いながら、私はきっと人の温度には弱い。 神様は私のことをひとりぼっちにはしてくれないようだ。 ひとりになりたいと願っても人生は時々見ず知らずの誰かを隣に座らせる。 ひとりぼっちの最果てにもきっと人がいるのだろう。誰もいない場所まで逃げたつもりでもそこにはいつか名前も知らない誰かが座っていて何でもない顔でこちらに話しかけてくるのだと思う。 「ここ、○○駅か?」と。 そして私はきっとまた答えてしまう。 「○○駅は、次ですよ」と。 鳳条 暦 ?

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