
オゴトガイド見たとお電話ください!
電話 050-5448-9022
営業時間 11:00-24:00
-
08/20 09:45
その問いから、大岡昇平の小説『野火』に登場する「猿の肉」を連想した。 『野火』では、敗戦間近のフィリピン・レイテ島で、日本兵たちが激しい飢餓に追い詰められていく。主人公の田村一等兵は、「猿の肉」だと言われ、干した肉を差し出される。しかし、それは本当の猿ではなく、死んだ兵士、あるいは殺された人間の肉であることが示されている。 なぜ、人間の肉を「猿の肉」と呼んだのだろう。 猿は人間に近い姿をしている。しかし、人間ではない。 「これは人間ではない。猿なのだ」 そう言い換えることで、食べる側は、自分たちのしていることの恐ろしさから目をそらすことができる。 つまり「猿の肉」は、単なる嘘や隠語ではない。 それは、人間を人間と思わずに済ませるための言葉であり、自分の行為を自分自身から隠すための言葉でもある。 人肉だとはっきり認めてしまえば、自分が越えてはいけない一線を越えたことを直視しなければならない。 だから名前を変える。 「人」を「猿」に置き換えることで、殺された誰かを、人格のある一人の人間ではなく食料として扱えるものに変えてしまう。 戦争の中では、こうした言葉の置き換えが繰り返される。 人を殺すことを処理と呼び、死を損耗と呼び、奪うことを作戦と呼ぶ。 言葉を抽象的にすることで、その向こうにある身体や苦痛を見えにくくする。 「猿の肉」もまた、言葉によって罪悪感を薄めるためのものだったのかもしれない。 けれど、『野火』の恐ろしさは、「悪い人間が人を食べた」という単純な話ではないところにある。 飢餓によって倫理や常識が崩れ、生き延びるために、他者を人間ではなく、食料として見始める。 戦争は、人の命を奪うだけではない。 人間を人間として見る感覚そのものまで破壊してしまう。 食べなければ死ぬという状況では、平時なら絶対に越えないはずの境界が崩れていく。 人を食べてはいけないという倫理よりも、空腹や死への恐怖の方が強くなる。 けれど、たとえそれが生き残るための行為だったとしても、戦争が終わり、日常に戻った瞬間、その経験は語れないものになる。 戦場では生きるために必要だった行為が、平和な社会では罪や恥として扱われる。 その人は命だけでなく、誰にも話せない記憶まで抱えて帰ってきたのだと思う。 生き残ったことを素直に喜ぶこともできない。 食べたことを告白することもできない。 忘れたくても、身体が覚えている。 戦争の悲惨さは、死者の数や戦況として語られることが多い。 それは英雄的な物語でも、抽象的な悲劇でもない。 人の肉を噛み、舌で味わい、それによって自分の命をつないだという身体の記憶である。 戦争が終わっても、その味は、口の中から完全には消えなかったのではないか。 普通の食事をするときにも、肉を見たときにも、ふと蘇ることがあったかもしれない。 そして、その記憶を誰にも話せなかったのだとすれば、生き残ることは、それだけで救いだったとは言い切れない。 戦争は、生き残った者にまで罰を与える。 死なずに帰ってきた代わりに、平和な世界では理解されない記憶を一生背負わせる。 『ちいかわ』の映画を観た後に残ったのも単純な怖さだけではなかった。 かわいい、楽しい、仲間を大切にしたいという気持ちのすぐそばに命は誰のものなのか、誰かの犠牲によって得た幸せを受け入れられるのか という問いが残った。 『ちいかわ』の登場人物たちは、とても小さく、強い存在ではない。 だからこそ、自分一人の力ではどうにもならない世界で、それでも友達を助けようとする姿が心に残る。 極限状態では、自分だけが助かりたいと思っても不思議ではない。 それでも、誰かを見捨てず、食べられる側の痛みを想像しようとすること。 それがこの物語の中で、人間性に近いものとして描かれていたように感じた。 見た目のかわいさとは反対に、『ちいかわ』は、「弱い者が優しくあり続けることの難しさ」を描いているのだと思う。 力があり、余裕があるときに優しくするのはそれほど難しくない。 けれど自分も怖くて、苦しくて、助かりたいと願っているときに、それでも他者の命を命として見ることができるのか。 そこに本当の優しさが試される。 『野火』における「猿の肉」は、人肉を人肉と思わずに済ませるための偽名だった。 それは生き延びるために、他者を人間として見ないようにする言葉だった。 一方、『ちいかわ』の映画では、食べられる側にも感情があり、関係があり、生きたいという願いがあることを、かわいい姿を通して否応なく見せられる。 だから食べることをただの行為として切り離せない。 食べ物の向こうに命が見えてしまう。 その点で、二つの作品は正反対の方向から、同じ境界を描いているように思う。 『野火』では、人間を食べるために、その存在を「猿」と呼び、人間性を見えなくする。 『ちいかわ』では、食べられようとする存在にも心や物語を与え、見えなくされていた命をもう一度こちらに見せる。 見ないことで食べられる。 見えてしまえば、簡単には食べられない。 その差は、他者を命として想像できるかどうかにある。 私たちは普段、食べる側の視点で世界を見ている。 食卓に並んだ肉を見ても、それがかつて一つの命であり、身体であり、何かを感じる存在だったことを意識し続けるのは難しい。 そうしなければ、日常的に食べることができないからでもある。 つまり私たちも程度は違っていても、名前や形を変えることで、「命だったもの」を「食べ物」として受け入れている。 けれど人間の肉の場合、その変換は簡単にはできない。 食料と人間との境界が崩れた瞬間、自分自身もまた、誰かにとっての食料になり得る存在だと気づいてしまうからだ。 『野火』における「猿の肉」は、その境界を無理やり曖昧にする言葉だった。 『ちいかわ』の映画を観て、私は、命の重さを理解することは、ただ「かわいそう」と思うことではないのだと感じた。 自分が助かる側にいるときにも、犠牲になる側の存在を忘れないこと。 自分の大切な者を救いたいと願いながら、そのために傷つく別の誰かにも目を向けること。 その両方を同時に考え続けることが命を命として見るということなのかもしれない。 戦争の本当の恐ろしさとは、人を死なせることだけではない。 人間に、人間であることを一時的に捨てなければ生きられない選択をさせること。 そして、生き残った後も、その人に、自分が人間であることを疑わせ続けることなのだと思う。 そして『ちいかわ』の映画は、かわいらしい物語の姿を借りて、その包まれていたものを、もう一度こちらに見せてきた。 食べられるものにも、命がある。 生き残る者にも、罪が残る。 そして自分が生きたいと願うことと、他者を犠牲にしたくないと願うことは、ときに両立しない。 その答えの出ない残酷さを、あえて小さくてかわいい存在たちに背負わせたからこそ 私はこの映画をただ楽しかった、怖かったという言葉だけでは終わらせられなかった。 生きるということが、ときに善悪では整理できないほど残酷になること。 人間は極限状態で、他者を人間として見られなくなることがあること。きっとどこまでいっても私たちは小賢しい生き物なのでしょうね もう一回くらい映画みたいな? 鳳条 暦 ?
1~1件 / 1件
- 1


































