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08/21 09:30
誰がための自分
誰も見ていない所でも、常にどういう人間でありたいか。
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最近、この問いが頭から離れない。
人は誰かに見られているときよりも、誰も見ていないときに本当の姿が表れると言われる。
だからこそ自分を律するためには罰や評価ではなく、もっと静かな支えが必要なのだと思う。
私はそれを信仰心 のようなものと呼びたい。
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宗教を信じるという意味ではない。
もっと小さくてもっと個人的なもの。
「こういう人間でありたい」という、自分だけが知っている約束。
それがある人は、誰も見ていない場所でも、自分を裏切らない。
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今はあまりにも情報が多い時代だ。
SNSを開けば誰かの成功が流れ、誰かの正しさが流れ、誰かの幸せが流れてくる。
何が正しいのか、何が美しいのか、何を選ぶべきなのか。
世界は絶えず答えを差し出してくる。
便利になった反面、人は自分の答えを持つ前に他人の答えを浴び続けるようになった。
すると知らないうちに、自分が何を信じていたのかさえ分からなくなる。
昨日まで大切だった価値観が、誰かの一言で揺らぐ。
誰かの評価一つで、自分の価値まで変わったような気がしてしまう。
情報が多いということは、選択肢が増えたということでもある。
しかし同時に、自分という軸を失いやすくなったということでもある。
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だから私は人には何か一つ、自分だけの信仰 が必要なのだと思う。
それは神様でなくてもいい。
哲学でも、本でも、一人の作家でも、一つの言葉でもいい。
この考え方だけは最後まで手放したくない。
そんな小さな灯火があるだけで、人は迷いながらも歩いていける。
信仰とは世界の正しさを信じることではない。
自分がどう生きたいかを、忘れないための装置なのかもしれない。
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人生には誰も褒めてくれない選択がある。
落ちているゴミを拾うこと。
陰で誰かを悪く言わないこと。
約束を守ること。
嘘をつかないこと。
感謝を口にすること。
そんな行動は、拍手も賞賛も生まない。
けれどその積み重ねが人格になる。
人格とは誰かに見せるためのものではなく、誰も見ていない場所で繰り返した選択の総和なのだと思う。
だから私は、見られているから正しくある のではなく、見られていなくても、この人でありたい と思える自分でいたい。
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海が誰も見ていなくても波を打ち、星が誰も見ていなくても夜空を照らすように、人もまた誰かの視線ではなく、自分の信じるものによって生きられたら美しい。
結局、人を最後まで支えるのは他人の評価ではない。
「私はこういう人間でありたい。」
その静かな祈りだけが、人生のあらゆる雑音を越えて、自分を前へ運んでくれるのだと思う。
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鳳条 暦

































